20
柔らかな風が雪花の頬を撫でた。
「植木屋が参りますから」
と、朝にミノが言ったとおり、庭のどこからか木を鋏みで切る音がしている。それは規則正しく枝を切り落としたかと思えば、せわしなくぱちぱちと音をさせていく。雪花は人目に触れるのを嫌うから、植木屋の音が遠いのを確認し、縁側で羽織を縫う。
――花見の日より三日が経過していたが、このところ嘉弘は帰宅していない。ミノなどはまた悪い病がでたと吐息を落とし、慌てて「すぐに雪花さまのもとにおもどりになられますよ」などと余計なことを言う。
嘉弘が戻らぬことは苦痛では無い。
むしろ心が休まる程だが、胸の奥で芽生えたものが時折ふっと掠める。
――嘉弘の心など、考えても仕方の無いことだというのに。
あの男はとうてい雪花にはかれるものでは無い。
心の内など吐露する男でもないのだから。
雪花は吐息を落とし、ふっと視線をあげて驚いた。
縫い取りに没頭しすぎていた為、そこに植木屋の羽織を着たものがいることに気づかなかったのだ。
途端に身がすくむ。
少しは外に慣れた気でいたが、やはり見知らぬものがいるのは心に応える。慌てる雪花に、その男が口を開いた。
「あんた、この間はすまなかった」
「――」
潜められたその声は太く、その眼光は鋭い。
それが先だって雪花を切ろうとした浪人者だと気づいた時、雪花はへたりと腰を抜かしていた。
すとんと腰が後ろに落ちて、片手でもっていざるように下がろうとするのだがうまくいかない。
あえぐように口を開き、二度程大きく息を吸い込んだ。
「安心してくれ、あんたに危害を加えようってんじゃない」
「……なにを」
小さな声が掠れた。
「にがしてやるよ」
その言葉の意味に、更に雪花は驚愕した。
この男は何を言っているのだろう。
町人のような姿に身をやつし、未だ腕に痛みが残るのか右の腕をしきりにさすりながら、男は真剣な様子で切々と語る。
「あんたのことを調べさせてもらったら、あんたも随分と気の毒な人だと知れた。
だから、なぁ――あんたのことを」
逃がす?
何故?
雪花は驚愕のあまりゆるく首を振った。
まったく相手の言葉の意味がつかめない。
逃げる、という言葉の意味が判らない。
何故、逃げなければならないのか。
――自分は逃げなければならないような者だったろうか。
逃げる。
どこへ?
男が少し苛立つように眉をひそめた。
それは純粋な好意であったかもしれない。先日、雪花に傷口を処置してもらったことへの礼であったのかもしれない。自らに情けを掛けてくれた雪花へとむけた同情。
野太い腕が突き出され、雪花の手首を掴む。
「行こう」
その言葉に重ねるように、雪花は悲鳴をあげていた。
逃げる?
どこへ?
――ここより他に行く場所などありはしない。
外など恐ろしくて生きていかれぬ。
人の目が、言葉が、その全てが、怖い。
その恐怖に瞳を見開き、雪花は悲鳴をあげていたのだ。
一気に屋敷のそこらかしこが騒がしくなる。
元よりここは人の多い屋敷。雪花の居る場が最奥であり、最も人の少ないところではあるが、それは逆に袋小路を意味する。
雪花の腕を掴んだままの男が驚愕に体をこわばらせる。
自ら救いに来た娘が、よもや悲鳴をあげるなど考えてもいなかったのだろう。
ばたばたと足音が近づき、真っ先に男に得物を突きつけたのは道場にいた有村であり、また吉次であった。
「この、慮外者!」
吉次の持つ木刀が男の腕を跳ね上げ、すぐさまその腕の中に怯える雪花を抱きとる。
腰の抜けた雪花は、震える体で吉次に縋りその胸に自らの顔を押し当てた。
外はイヤ。
外など行きたくは無い。
いや――旦那様っ。
必死に吉次に縋り、思い浮かんだその人の姿に雪花は一気に思考を止めた。
「――」
有村の刀が男の首筋にぴたりと当てられる。
「どのようなつもりか、釈明してみますか?」
「……」
「この屋敷で死体が一つ増えようと、誰も気にしませんよ」
有村の静かな声が響く。
男は苦痛のようなうめき声をあげ、雪花は失った思考を取り戻した。
「いえ、いえ……」
掠れる声がようやっと漏れる。
悲鳴をあげた喉は小さく弱々しく、掠れて――それでも確かに辺りにいた者達の耳に届いた。
口を利かぬはずの雪花の、その声が。
「……違うのです」
怖い。怖い。外など行きたくは無い。
何故外になど連れ出そうとするの。
男へと向ける否定的な感情と共に、今ここで言わねばこの男はどうなるのだという切迫したものが胸に触れる。
男に悪意は無かった。
それだけは事実だ。
自分はそれを知っている――たとえそれが雪花を恐怖させたのだとしても。
言葉をあやつる雪花に、皆が一様に驚いていた。そも、彼等を呼び寄せたのは確かに女の悲鳴であった。
ならばそれは雪花の、音。
「雪花や、無理をするでない」
労わるように吉次が言う。
吉次に縋ったまま、雪花はゆるゆると首を振った。
「驚いただけなのです。ただ、知らぬ者の姿に……申し訳ありません」
そう言う体は未だふるえていた。
吉次と有村とが目配せしあい、有村が門弟へと命じる。
「この男を道場へ」
「有村さまっ」
「悪いようには致しません。彼にはきちんと謝りをいれますから」
そう言いつつも、有村は刀を下げて門弟にそっと声を掛け、顎で男を示す。門弟は心得た様子で男を連れる、というよりも引き立てる様相でその場をあとにした。
土足で畳にあがった吉次の残す足跡を有村が処理し、吉次がこの騒ぎに駆けつけたミノに茶を頼んでくれる。
少し温い茶を喉へと通すと、やっと体のこわばりが解けた。
「雪花や」
吉次が柔らかな声音で問う。
「声を聞かせておくれ」
「御前」
「わぁっとる――おまえの声は心気のものだと医者も言うておったからな。きっと驚いた拍子に言葉を取り戻したんじゃろうて。
あの痴れ者は許しがたいが、それは感謝してやっても良い」
嬉しそうな吉次は何の疑いもなく好々爺の顔で言う。
つきりと雪花の心が痛むが、今更――何もいうことなどできない。
雪花は困ったように眉を寄せ、小さな声で口にした。
「吉次、様」
と。
すると吉次が顔をしかめる。
「だめじゃあ」
「御前」
「わしのことはお祖父さまと言うておくれ。お、ご隠居様も捨てがたいかのぉ。いやいや、何か他にも」
「御前……」
有村が脱力するような声をあげ、ふいに柔らかな眼差しを雪花へと向けてくる。
「無理に喋ろうとなさらなくて良いのですよ。
喉が痛むかもしれない。ゆっくりとで良いのです」
その言葉にほっと息をついてうなずく。
だが、ミノはそれを押しのけるようにして身を寄せた。
「喜ばしいことですよ、雪花さまっ。
きっと旦那様もお喜びになられる」
――その言葉に、ふっと気が重くなった。
もとより嘉弘は雪花の声を、言葉を承知している。
そして、やはり人との会話はとても疲れる。
「指文字が楽であればそれだっていいじゃありませんか。喋れるからと無茶をなさらずとも。私は雪花さんの指文字も好きですよ」
気後れするような雪花の様子に有村が言えば、吉次がちゃかすように口許をゆがめた。
「雪花の手が触れてくれるものなぁ。
この助べえが」
「――どうしてあなたはすぐにそうやって」
二人のじゃれるような会話を耳にしながら、雪花はそっと胸元に触れた。
りん、と鈴が揺れる。
それに触れて、雪花はふっと先ほどの自分を思った。
咄嗟に救いを求めた自分の脳裏を、嘉弘が過ぎったのが……とても苦い。