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鬼の棲む家   作者: たまさ。
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1

 その屋敷があるのは千住平河町――浪人という身分でありながら、その屋敷の広さはこの辺りでも類をみない。

 敷地内には母屋と道場、離れと先々代の趣味という茶室、それと幾つかの蔵を所有していた。


 雪花が十二の時から四年と半年暮らしているのは、その屋敷の離れに当たる一番奥にある小さな平屋だった。母屋からは渡り廊下で繋がってはいるものの、その廊下を渡ってやってくるものといえばこの屋敷の下女下男を束ねている中年女のミノ。この屋敷で長く仕えているミノは、四十に手が届くかというころあいの女で貫禄のある体つきをしている女丈夫だ。

 同じ敷地内に多くの門下生を持つ道場が作られているというのに、奥まった場所にある離れはとても静かなものだ。

 雪花は雪見窓の横、ほんのりと入る日差しの優しさに時々ぼんやりとしながら手元の羽織に針を刺した。

 黒い羽織の胸と背には柊紋(ひいらぎもん)――この屋敷の主の家紋だ。

 それを一刺し一刺し繰りながら、雪花はただ静かに考える。

この屋敷に引き取られた意味は、実は未だによく判らない。嘉弘はその理由を口にはしなかったし、雪花自身尋ねたりもしていない。そもそも、この屋敷に来て一言も雪花は口を利いたことが無い。

 胸にあるのは奇妙な感情だ。


――山田浅右衛門(やまだあそうえもん)

 かの男は「父親を殺した男」だと名乗った。それを聞いた時に湧き上がった感情は、憎しみなのか何なのか、今もって雪花には判らない。

 嫌悪か、憎悪か。

なににしろ、それまでの冷え切ったものが払拭され、雪花は感情を取り戻した。どうとでもなれというものは無い。ただ、自分はその男を見返した。

 誰からも要らないといわれた身だ。

罪人の娘として――忌まわしいものとして冷たくあしらわれた身だ。それをかの男は自らの屋敷に住まわせた。

 その意図もわからなければ、こうして住んでいる自らの意図も判らない。

……時々、殺したいという思いが沸き立つ気もする。

 そしてまた、どこか自分の中で冷静な部分が笑うのだ。


――父は罪人として首切り役人に切られたのだから、仕様の無いことではないか。

雪花は、四年を過ぎた今もその思いを消化することができないのだ。

 こうして暮らしている自分をあざ笑う自分。父を殺した憎い男を利用しているのだという自分。いつか殺してやるのだと叫ぶ自分。父は自業自得なのだと泣く自分。

雪花は、感情を取り戻してなお、自らを失っているような気がして落ち着かないのだった。

 ぴくっと指先が動いた。

考えに没頭しすぎてか、銀の針が雪花の指先を突き、その肌からぷくりと血の玉を溢れさせた。

「……」

 痛いという言葉も出ない。

もう四年半の間言葉を喋らずにいた癖か、咄嗟にも声は喉を振るわせようとはしない。本当に声は失われてしまったのかもしれない。そう思ったところで、雪花はわざわざ声を出そうとは思わなかった。

――はじめは、意地だったのだ。

 父を殺した男と話などしたくない。

その屋敷に身をおいているというのに、頑なに雪花は口を噤んだ。だがそれは、周りの人間達にすんなりと「口無し」なのだろうという認識を与えてしまった。

 喋らなくて良いのだと思えば、雪花はどこか安堵してそのまま放置した。

喋りたくない。

喋らなくて良い。

 ここは、鬼の住処(すみか)なのだから。

雪花は自らの心をもてあましながら、四年と半分の歳月を過ごしていた。

 血の玉をそっと口にふくみ、吸い上げる。

決して旨いとはいえない奇妙な味が口の中に広がり、吐息を落とす。唇を離すと、またうっすらと血がにじんだ。それを今度は舌先だけで舐める。裁縫箱の中にあるハギレでしばらく抑えると、やっと血は止まった。


 羽織に血がつかぬようにと注意したのだが、ふとそんな行為も実はばからしいのではないかと苦笑がこぼれた。

 この羽織は山田浅右衛門の――将軍家に献上される刀の試し切りの為に罪人の首を落とす、首切り浅の羽織。この先いくらでも血を吸うのだから。

 誰と会話するでなく、せん無い事を考える。

それはとても不毛だと――実は自分でも気づいている。

 大きく息を吐き出し、ふと渡り廊下に音を拾う。廊下をこするように歩くのはミノの癖で、癖といわずともそこを歩むのはミノしかいない。

 すっと障子の前に影が落ち、居住まいを正して開かれる。


「雪花さん、身支度を」

その言葉に、雪花は眦を二度震わせた。ちらりと外の様子をうかがったのは、未だ明るい為だ。

 彼女が身支度を命じるのは当主の帰宅を示す言葉で、屋敷の人間の多くが門前で彼を迎え入れる。それは先代からの習いで、今は道場で門下の指南をしている先々代の吉次などは「武家でもあるまいに阿呆らしい」と笑う。だがミノは「当然のこと」として形を大事にするのだ。

 雪花は手元の羽織を一旦軽く畳み、裁縫道具と共に棚へと戻した。

彼女が来るのは先触れが到着してすぐのことだが、身支度といったところで何をするわけではない。ただちらりと鏡を見て、そのまま部屋を出る。

 今日は早い。

ならば直に戻るということで、酒も女も袖にしたのだろう。仕事がある日は決まって郭で憂さを晴らすような男だ。早い帰宅は仕事が無いことを示す。

 雪花は気分を滅入らせた。

この四日程、帰宅することが無かったものだからなんとなく今日も戻らないのだろうと思っていた。ある月などは一月の間戻らぬこともあった――あれは幕臣の誰かを暗殺しようとした一味がつかまり、その一族郎党の処刑に追われていた為で、おそらく相当鬱屈が溜まっているのだとミノなどは訳知り顔で言っていたし、吉次の後ろでやんわりと微笑んでいる有村藤吉(ありむらとうきち)は「当代はそれ程ヤワではないと思いますがね」と苦笑していた。

 そのどれでも構わない。

帰宅するなら帰宅するでもう少し事前に知らせてもらえれば、心の準備ができるというのに。

 雪花が表玄関口にたどり着くと、そこにはすでに道場の門下生と屋敷の女中が控えていた。

 前を歩いていたミノが正面に座し、雪花が玄関の上がりかまちに斜めに座る。丁度正面の門が開かれ、しばらくすると籠が邸内に運ばれた。

ゆっくりと籠が側面を向いて地面に下ろされ、門下の一人が履物を揃える。それにあわせて籠屋が垂れ幕を跳ね上げると、黒衣の羽織と袴姿の男がゆっくりとした動作で地面におりた。

 脇差の大小を左手に持ち、そのまま玄関から入ってくる。

人々が頭を下げるなか、ミノは晴れがましいというように明るい口調で「おかえりなさいませ、旦那様」と迎え入れた。

 雪花は着物の裾を伸ばすようにして指先を隠し、両手を捧げて頭を垂れる。それにあわせてその手の上にずしりと重い大小の刀が置かれた。

 柊紋の鍔を持つ艶やかな刀は先代の形見の品。

代替わりのおりに将軍家から刀を下賜されているものの、普段それは使われることもなく桐の箱に収められているという。

 ずしりと重いそれを押し頂き、雪花は伏せた瞳の下でふわりと香がくゆるのを感じた。

幼い頃に不思議だったそれは、ただの匂いけしだと今は知っている。こびりついて離れない死臭を消す――ただそれだけの品。

 

嘉弘(よしひろ)の後をミノが歩き、その後を雪花が続く。ミノは四日ぶりの主の帰還が嬉しいのか、しきりと話しかけているが相手からは時々相槌が戻るだけだ。

 玄関から離れると、背後のほうでほっと息をつく気配を感じる。

――彼らもまた、怖いのだ。

当代の持つあの雰囲気が。彼の刃が振り下ろされるのは罪人だけだと決まっているというのに、幕府によって人を殺すことを許されたその存在をどうしても畏怖してしまう。

 雪花などはそれが不思議で仕方ない。

所詮(しょせん)、皆おなじではないか。

 門下の者も人を殺すための術を学び、その臓腑がどんな薬になるかを学んでいる。罪人の臓腑は薬として卸されるのだから、この屋敷の人間はどのみち――みな鬼でしかない。

 雪花の父も罪人として嘉弘に屠られ、その臓腑は薬として売り払われたに違いなく、その骨はどこかの無縁仏として捨てられたのだ。

 そう思うと失われそうな殺意がわく。

――自分はきっと、いつかこの男を殺す為にここにいるのだ。

 雪花はただ静かな眼差しで、黒い背中を眺めた。

途端、ぴたりと前を行く背が止まり、雪花は危うくその背にぶつかりそうになった。

慌てて足を止めると、すっと嘉弘がゆっくりと振り返り、口の端を上げた。

「――」

言葉はない。

ただ、唇を引き結ぶようにして笑い、雪花を視界に捕らえ。そしてゆっくりと顔を戻して歩む。

 雪花は我知らず腕の中の大小を抱いた。

――何を考えているのか理解できない。

ただ、雪花は背中に冷水を浴びたような気持ちで唇を噛んだ。


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