18
「雪花や」
夕刻であった。
屋敷に立ち戻り、雪花がぼんやりと庭を眺めていると、珍しく吉次が渡り廊下を渡って訪れた。
普段であれば庭を巡り縁側から来る人の意外な訪問に、雪花はそれまで放心するようにしていた自らの腹に力を込め、軽く頭を下げた。
「花見に行くぞ」
その言葉と同時にずかずかと雪花の前に立つ。
「籠を手配してある。行こう」
雪花は驚き、慌ててふるりと首を振って駄目だと示す。
今宵は嘉弘が居るのだ。断りもいれずに外出などできようはずもない。
――何より、今宵、あの男は雪花を抱く心積もりであろう。
昼間のうちに血を見たのだから。
ふと、雪花の内に陰りが生まれる。
絶望的な程の強さ。
己と、嘉弘との違いをまざまざと見せ付けられ、ただ自らは恐怖したのみだった現実。
嘉弘は、返り血すら浴びていなかった。
「嘉弘を気にしておるのか?
もうあれには話してある。だから気にせずにおいで」
くいっと手首をつかまれて立たされる。
吉次は瞳を細めて優しく、ただ優しく雪花を見つめた。
「たんと美味いものを食おうな」
その優しさに、雪花ははにかむような笑みをそっと見せ、うなずいた。
それは吉次の配慮であろう、人に会わずにすむようにと籠は船着場まで雪花を運んでくれたし、船の船頭すら姿を見せず、仕立てられた屋形船にはすでに料理が整っていた。
片方の障子を開き、船はゆっくりと船着場を離れ隅田の川を流れる。
「花の良い頃合に船を止めてもらえる手はずだ」
と、吉次は機嫌が良い。
「御前、呑み過ぎないで下さいよ」
すでに船でまっていた有村は、酒の管理に急がしい。
――膳には刺身に焼き物、天ぷらや揚げだし、玉子と彩りよく並び、いくつもの酒の銚子と徳利。
三人だけの宴は随分と豪華なものだ。
そして、花。
未だ散ることのない桜が川沿いに並び、それが月明かりに水面に反射して幻想的な雰囲気をかもした。
「呑みますか?」
それまで水を飲んでいた雪花に、ふいに有村が銚子を示した。
酒にたいしてあまりいい印象が無い雪花は躊躇したが、にこやかな顔で有村に言われて無下に断れずにそれを受けた。
とろりと白濁した液体が猪口を満たし、それをおそるおそる口へと運ぶ。
香りは、まるで果物のように甘く。
そしてそれは喉を柔らかくなで上げて嚥下された。
自然と笑みが浮かび、それを見て有村も笑う。
「雪花さんもこのくらいは平気ではないかと持ち込んだんです。口当たりがいいでしょう? せっかくの酒の席です、たまにはいいでしょう」
「だまされるでないぞぉ、雪花。
そやつは狼じゃあ」
「御前、もう酔った訳じゃありませんでしょうね」
嘆息交じりに有村が吉次の世話をやく。
その様子を微笑ましいと眺めながら、雪花はこくりこくりと酒を口にした。
腹の奥底でこわばっていた何かが解けるような気がする。
――愚かしい。
雪花は、昼間の男達を見てそう思ったのだ。
それはとても苦い。
嘉弘の罪とは何であろう。
嘉弘には罪があるのだろうか。
――無いのであろうか。
あの男達は兄の仇だと嘉弘を憎々しげに見ていた。
では、その兄に罪が無いとでも? それを処断した幕府は?
なぜ嘉弘が憎まれるのか。
その考えは堂々を巡る。
最終的につくはずの答えを前に、雪花は絶望的な気持ちになった。
――嘉弘に罪がないと認めてしまうのは、全ての否定。
私は……いったい、なんであろうか。
「雪、花……さん?」
心配気に有村が雪花を覗き込めば、雪花はただはらはらと涙を零していた。
辛いのではない、ただ、ただ切ないのだ。
ただ愚かしい。
自らを哀れむ愚かな子供、それが自分。
――こてりと雪花が寝入れば、有村と吉次は顔を見合わせた。
「かわいそうに……」
「おまえ、持ち帰るか?」
「は?」
吉次は徳利に直に口をつけながら、その瞳はつまらなそうに眇めている。
「……やつは駄目じゃ。あれは……雪花を囮に使いおった」
忌々しいというように舌打ちがもれる。
最近嘉弘が雪花を連れ出しているのは、当然吉次も有村も知っていた。どんな酔狂だとは思っていたが、
「どういうつもりだと問うたらば、あやつ何と申したとおもう?」
「――」
「一人で歩いたところで警戒をといてのこのこ出て来るものなどいないだろうと抜かしおった! まったくその通りで反吐がでる」
「わしも悪いんじゃ、判っとる。
あやつが幼子を連れ戻った時には、あれにも情があるのだと喜んだものじゃ。したが長いこと放り出し、最近やっと省みるようになったかと思えばこれだ」
「御前、呑みすぎですよ」
「……のう有村。
わしは雪花が可愛い。可愛いんじゃよ。ただ幸せになって欲しいだけなんじゃ」
「だから、呑みすぎですよ」
有村は嘆息し、自分の膝を枕に眠る雪花を慈愛のこもった眼差しで見つめた。
「私は所詮人切りです。
……この人には相応しくありませんよ」
自嘲気味の言葉を、吉次が鼻で笑う。
「愚かしいの」
「――そうやって生きていくものでしょう?
だから、御前、その手にもってる徳利をとりあえず置きましょうね?」