16
花見に行きたいのだと――
口にだす前に、それは突然言われた。
「――来い」
嘉弘が休みというのも珍しいが、その休みに離れを訪れるのはもっと珍しいことであった。
珍しい、否――そもそも嘉弘がこの離れを訪れたのが二度目のことだ。
雪花がいつものように針仕事をしていると、何の言葉もなくタンっと襖が開かれた。
ミノのようにすり足の足音もさせずに現れる嘉弘に、雪花は心の蔵が止まるかとびくりと身をすくめ、ついで針で指をついた。
「っ――」
「出かける、ともに来い」
傲慢な言葉。
雪花は慌てた。ふるふると首を振るが、相手はその思いを汲もうとしない。
苛立つように見下ろされ、仕方なく口を開いた。
「――無理です」
「何がだ」
「……私は、外が……」
ぐっと喉の奥が詰まった。
身が小さく震える。
「外が――怖いのです」
声が震え、身が縮こまる。しかし嘉弘はそんな雪花をしばらくながめ、やがて鼻で笑った。
「おまえにオレよりもこわいものがあるのか?」
「――っ」
じっと冷たい眼差しが雪花を見下ろす。
手と腹に力が入り、雪花は一旦瞳を伏せた。
負けない。
「行きます」
ふっと嘉弘が口元に笑みを浮かべる。それを睨み返し、雪花は棚に置いた懐剣を胸元に納めた。
正面から屋敷を出る時、ぐっと喉の奥がなり小刻みに身が震える。奇妙な汗まで流れ出すしまつ。
ミノが困惑した様子で送り出し、嘉弘が何が楽しいのか口の端を歪めて続く雪花を一旦促すように顎で外を示す。
――奥歯を噛んで、雪花は覚悟を決めた。
ただ嘉弘の背を見て歩く。
他は一切気に掛けない。
雪花が気を張って歩むのと違い、嘉弘は何の気負いもなく静かに歩む。その背の気楽さに雪花は憤慨していた。
息が切れる。
ゆっくりと開く二人の間に焦りを覚え、雪花はぎゅっと手を握り締め、声をあげようと口を開いた。
まるでそれを知るように、ぴたりと嘉弘が足を止めて振り返る。
何を言うでなく、すっと手が差し出されて驚く。
差し出された左手の意味が判らずに、雪花は驚愕した程だ。
「どうした。来い」
「……どちらに、行かれるのです」
そう、その行く先すら雪花は知らぬ。
恨めしげに相手を見上げれば、嘉弘は普段通りの様子で「散歩だ」と信じられないことを言う。
――まったく意味が判らない。
本当にこれはあの嘉弘なのかと、もしや自分は狐につままれているのではなかろうかと雪花の顔色が変わるが、嘉弘はそんな雪花を頓着しない。
戸惑う雪花の手を無遠慮に引き、歩く。
それは確かに散歩であった。
散歩としかいいようのない、行動。
どこというあてはなく、ただ歩む。疲れれば茶屋で茶を飲み、川辺を歩き、竹林を歩む。
楽しく会話するでなく、ただ歩む。
時には芝居小屋をのぞき、道端の大道芸に足を止める。
人の視線に怯えながら、雪花はただ嘉弘だけを見ていた。
――この男より怖いものなど、ないのだから。
意味も判らず振り回されるのが――それから三日の間、続いた。
そもそも、何故嘉弘は仕事ではなくこんなことをと、とうとう雪花が痺れを切らしたころあいに、ふいに嘉弘が呟いた。
「きたか」
呟いた言葉と共に、嘉弘の口元が緩んだ。