14
正面玄関で家人共々主をまっていた雪花だが、籠ではなく珍しく徒歩で帰宅した主を前に、驚愕の瞳を見開いた。
それはなにも雪花だけで無く、家人も一緒。
「旦那さまっ」
「騒ぐな―――返り血だ」
忌々しいというようにいいながら、道場の門下生らに外の始末を命じる。
「医者は来ているのか? 殺してはいない。さっさと役人と医者を手配してやれ」
屋敷の外、帰宅するすんでで賊により襲われたその様子に、屋敷内が蜂の巣をつついたような騒ぎになりかけたが、嘉弘は大小を雪花に渡すわけでもなく、ずかずかと歩む。
「風呂は?」
「あ、用意できております」
ミノが応える。
雪花は刀も渡されず、どうして良いのか判らずに中腰で主を見送ってしまったものだが、すぐにミノによって「雪花さまっ」と呼ばれ、慌ててそのあとについた。
「旦那様の御着替えをお持ちしますから、雪花さまは風呂までご同行して下さいな。着替えのお手伝いと、お刀を」
こくりとうなずく。
数歩先を行く嘉弘と言えば、その口元がゆがみ瞳が爛々と輝いている。その体全体から立ち上る殺気に雪花は身震いした。
――怖い。
自然、胸元の懐剣を握った。
りん、鈴が鳴る。
母屋の外れに作られた主筋用の風呂。
突然やってきた主の姿に、風呂番の男が慌てて頭を下げる。
「湯はまだぬるいように感じます、ただいますぐに湯の温度をあげますので」
慌てて外に行く男の声など、おそらく嘉弘は聞いてなどいまい。
苛立ちを撒き散らしながら脱衣所までくれば、手にしていた刀を乱雑にあいた籠の中に放り込む。
慌てて雪花がそれへと手を伸ばせば、
「触れるな」
と叱責のような声が飛んだ。
それならばと、おずおずと嘉弘の着物へと手を伸ばす。
帯を解こうとすれば、苛立ちのままに睨まれた。
「良い――おまえは部屋にいろ」
触れるなという憤りに、雪花は途方にくれはしたものの、主が何もするなというのであればそれに否やなどあるはずもない。
雪花はきゅっと手を握り、一度頭をさげた。
りんっ、と鈴が鳴る。
「――」
会話もなく雪花は浴室を出て、静かに離れへと戻ろうと歩む。
途中で着替えを盆に載せたミノにいきあえば、彼女は「どうなさいました」と声をかけてくるが、雪花は曖昧な笑みで首をふり、自らの離れを示した。
「機嫌が悪いのですね。
判りました――ではもう離れでお休み下さいな。のちほど夕餉をお持ちしますから」
こくりとうなずいて雪花は離れに下がる。
未だ頃合は夕闇。
闇に染まりきらぬぼんやりと明るい空。
一人きりになりぼんやりと庭を眺め、雪花は顔をしかめた。
恐ろしい――
むせぶような血の香り。いつもは香の香りをまとい帰る嘉弘の身を、あれは確かに血と臓腑のような香り。本能が目をそらすような匂い。喉の奥をせりあげる異臭。
苛立ちばかりを含んだ眼差しは、たとえ家人であろうと切り捨てることのできる冷たい熱を孕んでいるようにも見えた。
もし、今のあの男に逆らえば誰であろうと切り殺される。
かたかたと身が震え、すがるようにぎゅっと懐剣を握った。
へたりとその場に座り込む。
あの男を知っていると思っていた。
だが、雪花はそんな自分を叱責する。
――あんな恐ろしい生き物など知らぬ。
あんな恐ろしい相手を、自分は、殺そうとしたのか?
あの男は……――
思考の海をただよう雪花を正気づかせたのは、たんっと乱暴に勢いのみで開かれた障子。
母屋へと続く廊下から現れた嘉弘は、づかづかと室内に入り込み、射殺す視線で雪花を見下ろした。
「部屋にいろと申したろう」
「……」
ここが部屋だ。
そう反論しようにも、舌が動かぬ。
怯えを隠さぬ雪花に、嘉弘は舌打ちを一つ。
「血が沈まぬ、おまえが沈めろ」
その頃には追いついたミノが、さすがに主の無体を諌めるように雪花を庇う。
「旦那様っ、雪花さまは病み上がりでございます。
今宵は――」
「どけ、ミノ」
静かに、冷ややかに嘉弘がミノを睨む。
さすがのミノもこのような嘉弘を前にするのははじめてなのか、言葉を凍らせた。
「他人の色事を見るのが趣味ならとめぬがな」
たやすくミノをどかし、さっさと雪花に手をかける。
雪花は恐怖に逃れようとするが、容易く抑えられ――救いを求めてミノを見ても、ミノは蒼白になり、静かに頭をさげて下がってしまう。
誰も、助けてはくれない。
「っっ」
先ほど覚えた血の香りを思い恐怖がたちのぼる。
だが、今の嘉弘から立ち上るのは、石鹸の香り。
――ぬかなどではなく、高級なるそれを遣う男に、何故かふと力が抜けた。
抜ければそこにいるのが先ほどまでの死臭と殺意を垂れ流すバケモノではなく、もう少し判りやすい鬼である。
「鳴け、雪花」
「ッ――」
乱暴に雪花を抱く男の下で、雪花は先ほどまで弱くなっていた自分の気持ちを叱咤した。
――負けなどしない。
まけなど、しない。
強く、強く。
「くっ、くくく」
耳元で楽しげに笑う。
それは笑う、というよりも哂う――嘲笑。
「有村に稽古をつけてもらうそうだな」
体を繋ぎ合わせた途端、雪花の耳朶を噛んで嘉弘が囁く。
その言葉に、雪花がわかりやすいほどに反応し、それを嘉弘は楽しんだ。
「ぁっ――」
「そうだ、鳴け、雪花」
声は出すまいと堪えるのを、あざ笑うかのように嘉弘が笑う。
「オレのもとまで、這いずりおちて来い」
――雪花は全身の力を抜いた。
鬼が、歪んだ笑みで哂う。