10
いつになく殺伐とした雰囲気を撒き散らし帰宅した主を迎え入れるのに、ミノはいつもの正面ではなくいつもは雪花がすわる上がりかまちの横に斜めに座る。
雪花が戸惑うと、
「雪花さまはそちらで」
と、普段彼女がいる正面を示され、その言葉に下男や下女も奇妙な顔をする。
雪花はこうしたミノの思想が時々判らないが、逆らうのも面倒で正面に座り、普段ミノがそうするように三つ指をついて頭を垂れ、主を迎え入れた。
嘉弘は無言で歩み、持っていた大小をそれでも雪花へと示す。
雪花は慣れた様子で着物の袖口を伸ばすようにして――決して直手で刀に触れぬように相手の刀を押し頂いた。
前を歩む主の後を粛々とついて行くと、そっとミノが雪花に耳打ちした。
「雪花さま、御酒は私が用意いたしますから、旦那様のお着替えの手伝いを」
――雪花は戸惑いながらもその言葉にうなずいた。
屋敷、母屋の一番奥にある嘉弘の部屋へとたどり着き、いつもと同じ様に刀を納め、雪花はいつもと違い、嘉弘の羽織を預かり、袴を脱ぐ為に紐を解く。
着替えはいつも用意されている漆塗りの盆にある着流しで、雪花は頭の中で嘉弘の着物を脱がすのが先なのか、それとも脱ぐのは勝手にしてくれるのか、自分は着流しを手渡せばいいのだろうか? となれぬ手順を考えていると、膝をついて袴の紐を解いている最中の雪花の頤を、嘉弘が持ち上げた。
「鳴け」
はき捨てるように言う言葉と共に嘉弘が上から押さえ込む。苛立ちをそのまま向けるように、嘉弘は雪花をその場に転がした。
あまりのことに慌てる。
片手を畳につけて、逃れるようにずるずるといざるが、嘉弘はその程度で辞める気はさらさらにない様子で雪花の足と足の間――着物の上から膝をおった。
それと共に体の後退が終わり、また背中が箪笥に当たる。
声をあげる間もなく唇を吸われ、雪花は相手の胸を必死に押した。
嘉弘の舌が歯列を割って浸入しようとするのを、雪花はぐっと口を閉ざして阻もうとするのだが嘉弘はそれを許そうとせずに頬を指で強く押して無理矢理に口を割らせようとする。と、小さな音と共にミノが障子を開き「失礼します」と顔をあげて唖然とする様を、雪花はどこかかすれる視界にいれた。
「旦那様……あまり無体な真似は」
「ミノ、酒をもて」
離れた口が静かに命じる。ミノは嘆息し、膳を主の傍近くに置いた。
「下がれ――誰もよこすな」
「ご命令とあらば従いますが」
「下がれと言っている」
言いながら、嘉弘は雪花を押さえ込む手とは反対の手でもって酒が冷酒と確かめると、それを徳利のまま自ら口にし、その口でもって雪花の唇をふさいだ。
半ば強制的に開かれた口の中に、酒の味が流れ込む。
それを横目に、ミノは礼儀正しく頭をさげて部屋を退出した。
雪花は酒を飲むのは二度目。
とろりと口腔をとおるそれに反発するようにむせたが、嘉弘はそれでも雪花を離そうとしない。
幾度もそれを繰り返され、やがてぼんやりと力を抜けた雪花に、嘉弘はやっと顎を掴む手を緩めた。
目じりに涙を浮かべ、みあげてくる雪花に嘉弘が唇をゆがめる。
雪花の胸にある懐剣を引き抜くと、そのまま遠い場所へと投げ捨て、雪花の襟元を開いて顔をうずめた。
「……イヤ」
ゆるりと首を振るが、一息に流された酒に奇妙に体がほてり頭がぼぅっとかすむ。
「おまえが――悪い」
悪い?
雪花は射るように自分を見る瞳を見やり、眉をひそませたが、相手は雪花の現状など欠片ほども感知しない。床も無いそこで無理矢理に雪花を転がし、苛む。
声をあげるつもりもないのに、雪花の唇は小さな悲鳴を幾つも刻んだ。
気づけば――開かれた障子の向こうに銀の月がのぞき、それを背に嘉弘は酒を飲んでいた。
ぼんやりと転がり見つめながら、雪花は目じりから涙がこぼれるのを感じる。
「……」
――月光の下、長い黒髪の男が静かに酒を飲んでいる。
それを見ると、何故か雪花はとても悲しい気持ちがした。
体をそっと持ち上げる。
全ての衣類を剥ぎ取られ、今は脱ぎ散らされた着物がぞんざいに掛けられていた。
「来い」
雪花が動くのにあわせ、視線が向けられる。
雪花は唇を引き結び、睨んだ。
「……何故、こんなことをなさいます」
「貴様が選んだのだろうに、今更泣き言か」
「――」
「おまえには他に幾つも道があったろうに、自らその身を差し出し俺の女になったのだろう?」
そういわれると確かにそうなので、雪花は唇を噛んだ。
雪花は自分の愚かさを呪った。
この男へと今向ける殺意は、そうであった時とは違うものにしか思えない。
父を手に掛けたという男へと向ける感情ではなく、自らを苛む男へと向ける暗い感情だ。
だがそれは、自らが招いたものではないか。
――自分は本当に、この男を真実殺したいと願ったのか?
……ふっと、泡のように浮かんだのは、父へと向ける恨みになった。
雪花は自分の愚かしさに、月を背に座る男を見て儚く笑んだ。