四十一話 母の愛
穏やかで、おっとりしていて、何があっても笑顔でいてくれる優しい女性。
それが、五味花菜さんという人間の印象だ。
幼いころに出会ってからずっと、俺は花菜さんが怒ったところを見たことがない。武史がどんなイタズラをしても、どんな失敗をしても花菜さんはいつだって笑って許してくれていた。
『武史ったら、しょうがないんだから』
そう言ってあいつの頭を撫でていたことを、俺はよく覚えている。
優しい母親のいる武史が、本当に羨ましいと思っていたから。
だからこそ――花菜さんが武史をビンタしたことが、信じられなかった。
「武史。いいかげんにしなさい」
そして、花菜さんの冷たい声を聞くのも初めてで。
まるで、違う人みたいに感じた。
それくらい花菜さんは、武史の行動が許せなかったようだ。
「……え?」
俺と同じように、武史も動揺していた。
叩かれた頬を抑えながら、ポカンと口を開けて花菜さんを見つめている。
その顔に怒りはない。
驚愕と困惑、あとは……微かな悲壮の入り混じる表情である。
きっと、生まれて初めて花菜さんに叩かれたのだろう。
いや、あるいは……怒られたことすら初めてなのか。
「お、お袋? 何、やって……」
「それはこっちのセリフよ。武史、あなたは今……自分が何をやったのか分かっているの?」
戸惑う武史に対して、花菜さんは凛としていた。
今の花菜さんは、ただのおっとりした優しい女性ではない。
ダメな子供を叱るような、厳しさを兼ね備えるしっかりとした『母親』である。
それでいて、どこか……子を守る母のような、必死さも感じた。
「巧くんを殴るなんて、許せないわ。迷惑をかけるなら身内だけにしなさい……私や一華なら、あなたにどんな負担をかけられても、家族だから仕方ない。でも、彼を傷つけるような行為はやめなさい」
武史から、俺を守るように。
うずくまる俺の前に立ちはだかって、武史を凝視している花菜さん。
その視線に、武史はうろたえていた。
「お、俺よりも、こんな奴の味方をするのかよっ」
「当たり前でしょう? 武史……あなたは間違えているもの」
「だ、だけど、俺はあんたの子供だろ!? ぼ、暴力なんて、信じられねぇ」
どの口がそれを言うのか。
お前は俺に手を上げたくせに、自分が手を上げられたら被害者面か。
武史……お前はどうして、そんな風になっちゃったんだ。
「武史……あなたはどうして、そんな風になっちゃったの?」
どうやら花菜さんも俺と同じことを考えていたみたいだ。
「私の子供だと言うのなら、真っ当に生きなさい。人の痛みが分かる人間になりなさい。私はあなたを、そんな風に育てた覚えはないわ」
……花菜さんは怒っている。声も冷たいし、態度も厳しい。
でも、俺には分かる。
(花菜さんはまだ、武史を諦めてないんだ……)
優しくすることだけが、愛情ではない。
甘やかすことだけが、教育ではない。
間違えていることをしたら、しっかりと叱ること。
それもまた、母の愛だ。
武史のことを心から思うからこそ、花菜さんは真剣に武史と向き合おうと努力している。
怒ることなんて苦手なくせに、虚勢を張って……武史に更生してほしいと、願っている。
でも、その愛情は――届くわけがない。
「なんで……味方でいてくれないんだよっ。お袋はなんで俺のことを否定するんだよ! やっぱり、俺と血がつながってないからか? 俺はあんたと他人だからか? ふざけんなよ、クソが……あんただけは、俺の味方でいてくれると思ったのに!」
武史は、逆上した。
花菜さんの思いなんてくみ取ろうとせず、自分の感情ばかり優先させて、癇癪を起したように怒鳴り散らしている。
その姿を見て、俺は確信した。
花菜さん……子の更生を願うその思いは素晴らしいけど、こいつは無理だよ。
「最悪だ……俺なんて、生まれてこなければよかった」
ほら。こうやって、何も考えずに最悪の一言を口に出している。
(本当に救いようがないな)
武史はもう、どうしようもないクズ野郎になっているのだから――。
※39話と40話が抜けていたので、39~42話まで再投稿しております。
しおりのズレなどありましたら申し訳ございません。
本当にごめんなさい。(2024/03/11/19:45修正済み)




