四話 親の責任
――リビングで、花菜さんが俺に土下座していた。
床に這いつくばるように身を小さくして、額を深々と下げている。
たしかに、花菜さんは俺を裏切った武史の母親ではある。
あいつを育てたこの人に、責任がない……とまでは言わない。
だが、当事者ではないことは事実。この問題に対して花菜さんは関係がないと言っても過言ではない。
だから、無視すればいいのだ。
土下座している花菜さんなんて気にせず、隣の家にもう一度行って、なおも行為を継続している二人を糾弾すればいい。
でも、それは無理だった。
ここで花菜さんを無視できるような人間であれば、幼馴染に恋人を寝取られることはなかったのだろう。
「やめろ。同情を引いても何も変わらないぞ? あんたの息子を俺は殴る。許すつもりもない。友人関係はこれきりで終わり……謝ったところで、何も変わらない」
「ええ。武史は好きにしてもらっても構わないわ。浮気なんて最低な行為、許されていいわけがないから」
……ん?
てっきり、息子のことを思って頭を下げていると思っていた。
武史を庇おうとしてものだと考えていたが、この言い方だと少し違うように感じる。むしろ、武史を殴ることに対して花菜さんは肯定的ですらあった。
「私は、昔……武史の父親に、浮気されて見捨てられたの。だから、絶対に浮気なんて許さない……ちゃんと、あの子にもそれは伝えていたはずなのにっ。浮気されて、お母さんの私がとてもつらい思いをしたって、言ってたのに……!」
どうして花菜さんが、こんなにも謝っているのか。
それは……浮気という罪を、何よりも重く捉えているからのようだ。
「武史はね、私と血がつながってない子なの。浮気したあの人が置いていった子で……でも、子供に罪はないと思い込んで、愛情を注いだつもりだったわ。それなのに、どうして……あの人と同じ過ちをしちゃったの?」
蛙の子は蛙だった、ということか。
皮肉な話だ……憎んだ男への恨みに耐えて、愛情を注いだというのに、結局憎んだ男とそっくりに育つなんて。
結局、花菜さんは報われなかった。
つまり……この人は、俺と同じような人種なのだろう。
「見捨てれば良かったの? ううん、そんなこと私にできるわけないわ……それを知っていて、あの人は武史を置いていった。私に押し付けて、私に苦労させて、私を裏切って――私ばかりに、辛い思いをさせてっ……それだけならまだ我慢できていたけど、巧くんにまで辛い思いをさせるのは……ダメよ」
優しすぎるが故に。
甘すぎるが故に。
損をすると分かっているのに、搾取されてなお、人のために犠牲になることしかできない……花菜さんはそういう人間だ。
健気だと思った。
同時に、哀れにも感じた。
「やめろよ……そんな話をするな!」
不幸話なんてしないでほしい。
そんな話をされると、困る。
「傷ついたのは、俺なのに……そういう話をされると、何もできなくなるだろっ」
俺が鈍感でわがままな人間であれば、どんなに良かったことか。
花菜さんが傷ついても関係ないと、そう思えない自分が惨めで、情けなかった。
結局俺は、この人と同じなんだ。
自分が傷つけられても、相手を傷つけることができない……不幸になることでしか問題を解決できない、可哀想な人間なのである。
「ご、ごめんね? 同情してほしいわけじゃなくて……うん、そうよね。巧くんは、優しいものね。こういう話をされると、困るわよね」
謝ることも卑怯だと思う。
こんなに苦しそうに謝罪している人間を叩けるわけがないのだから。
その話を聞いた後だと、仮に武史を殴ったところで気分なんて晴れないだろう。
むしろ、花菜さんを余計に苦しめることになると考えて、罪悪感を覚えるはずだ。
なんだかんだ、あいつは花菜さんの息子だ。血はつながっていないかもしれないが、今まで愛情を注いできた子なのである……あいつが傷つけば、花菜さんだってきっと苦しむはずだ。
この人はそういう人間なのである。自分を捨てた男の子供ですら、愛してしまう愛情深い人間なのだ。
それが分かっているからこそ、俺は手を出せなくなった。
何をしたところで俺の気持ちがスッキリすることはないだろう。
泣き寝入りするしかないのか……と、復讐も満足にできない弱い自分を情けなく思った、そんな時だった。
「だから、その……私が、巧くんに償うわ。子の責任は親の責任だものね。もし、巧くんが許してくれるなら、なんでもする……巧くんが元気になるまで、私がちゃんと責任をとるわ」
花菜さんが、そんなことを言ったのである。
正直なところ、別に花菜さんに償ってほしいと思ってはいなかった。
だけど、花菜さんは……武史が誰よりも愛して、大切にしている家族である。
(……少しは、仕返しになるかもしれない)
自分の代わりに花菜さんが罪を償っていると知れば、少なからず己の行為を後悔するはずだ。
それなら……花菜さんに罪を償わせることが、俺にできる最大限の復讐になるのかもしれない――。