一話 親友と恋人を同時に失った日
――その光景を、俺は二度と忘れることができないだろう。
隣の家。窓越しに見える裸の男女が、言葉にできない行為をしていた。
カーテンが半分ほどしか開いていないから全貌は見えない。窓も閉まっているので、声は聞こえない。だけど、あそこにいる男女が俺のよく知っている二人だというのは、ハッキリとわかる。
だって、女の方は俺の恋人――円城香里だ。小学生のころから片思いしていた、憧れの人でもある……二週間前に付き合ったばかりで、まだデートもしたことがなかったのに。
そして、男の方は――俺が誰よりもよく知る、幼馴染の五味武史だった。女にモテるあいつは、俺にとって頼れる親友だった。彼女のことも、こいつに相談に乗ってもらっていたし、告白の際は背中も押してくれた。恩人だとすら思っていた。
俺の気持ちや事情を、全て知っている上であいつは……俺から恋人を寝取ったのである。
「――クソが!」
もちろん、ぶん殴ろうと思った。
だが、部屋が向かい合せとはいえ、距離は数メートルほどあるわけで……飛び越すには距離が遠すぎる。窓に何かを投げつけて気を引くことくらいはできそうだが、窓越しということで全貌が見えたわけじゃない。十中八九浮気されているが『何もしてない。勘違いしてるだけだろ?』と言い訳されるのも腹が立つ。
だから、直接向かうことにした。
そうすれば、言い訳の余地もなく……武史をぶん殴れるし、香里を糾弾できる。
「……ちっ」
逸る気持ちを抑えて、部屋を飛び出た。
ストレスで頭が割れそうだ。目の前がなんだか揺れている気がする……思考がうまくできない。
怒りで我を忘れていた。足元もふらついており、一階に降りる際に階段を踏み外して、数段転げ落ちた。
しかし、痛みはない。顔を強く打ち付けていたのか、頬から血がにじんでいたが、それでも治療する気にもなれない。
「許さねぇ……!」
あの二人への恨みだけが、俺を突き動かしている。靴を履くことすら億劫で、靴下のまま外に出た。
十秒も経たないうちに隣にある幼馴染の家に到着。インターホンはもちろん、ノックもせずに玄関に手をかけて、乱暴に扉を開け放った。
そのまま、あいつの部屋がある二階へ向かおうとして――しかしその寸前で、リビングの方から人がやってきた。
「え? た、巧くんじゃない……どうしたの!? 血が出てるわよっ」
……ああ、そういえばこの家にはあいつ以外の人間もいたな。
こっちを心配そうに見つめていたのは、五味武史の母親――五味花菜さんだった。
ゆるいウェーブのかかった黒髪がよく似合っている、近所でも有名な美人の奥さん。性格もおっとりしていて、俺のこともよくかわいがってくれた優しい人だ。
幼いころに両親と離別して、育ての親である祖父母を亡くした俺にとって、甘えられる唯一の大人でもある。
だけど今は、敵にしか見えなかった。
俺を裏切ったあいつを育てた母親なのである。
武史があんなクズになったのは、この女の責任でもあるのだから。
「どけ……武史に用がある」
「ダメよ、血が出てるわっ……待っててね、すぐ手当てしてあげるから――」
「だから……どけって言ってるだろ!」
声を荒げて、立ちはだかる花菜さんを押しのける。
普段、俺が乱暴にすることなんてないので、花菜さんはとても驚いていた。
「巧くん……? 本当に、どうしたの? 武史と、ケンカでもしたの?」
「ケンカなら良かったんだけどな……違うんだよ。お前の息子は、今――俺の恋人と、性行為してるんだよ!」
吐き捨てるように、言ってやった。
だから邪魔するなと、階段を上がろうとして……だが、花菜さんは俺をしつこく、引き留めてきた。
「せ、せいこ……って、どういうこと? おばさん、分からないわ。ごめんね、巧くん……落ち着いて、話を聞かせて?」
その顔は、青ざめていた。
ともすれば、俺よりも花菜さんの方が顔色が悪そうだと、そう思えるくらいに。
まぁ、だからと言って俺の怒りが収まるわけがない。
俺のシャツを掴んで離そうとしないし、邪魔で仕方なかった。
「どけ!」
花菜さんの手を引き剥がそうと乱暴に体を振って、今度はもっと分かりやすい言葉で言ってやった。
「お前の息子は、寝取ったんだよ……俺の恋人と、浮気してるんだ! これでいいか? 今からお前の息子をぶん殴るからどけ!」
『浮気』
そのワードを、言葉にした瞬間だった。
花菜さんの顔から、表情が消えた。
「――うわ、き? そんなはず、ないわよ」
花菜さんはいつもおっとりしていて、優しく笑っているような穏やかな人である。
だけど今は……無表情だ。
「だって、武史の父親は……浮気して私たちを捨てたのよ? そのせいで私たちはとても苦労した。だから、武史が……あんな男と同じような真似を、するはずがないじゃない」
怒りに満たされている俺が足を止めるほどに、なんだか不気味だった――。
お読みくださりありがとうございます!
本作は完結しておりますので、ぜひ最後まで楽しんでいただけるよう、作者として祈っております。
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