見えないけれど
カシャーーン
紅茶のカップが割れるその高い音は、室内によく響いた。
全員の視線がエドガーに向かい、一瞬の間があって、壁際にいた兵士の1人が近づいてくる。
片付けようと手を伸ばしてきたが、エドガーは笑みを作ってその手を止めた。
「失礼しました、手が滑ってしまって。旅から戻ったばかりで疲れているようです」
そう言って立ち上がり、自分でカップのかけらを拾いだす。
外の廊下に待機していたメイドが室内に呼ばれ、絨毯にこぼれた紅茶を拭き取りにやってくる。
その間もエドガーは笑みを浮かべたままだった。
ウォーダンはその様子をしばらく見ていて、部下たちに声をかけた。
「今日はここまでにしよう。エドガー、待たせたな」
「いえ、すみません、急がせてしまったようで」
誰より急がせた本人は、エドガーのそばで心配げに両手を組み合わせている。
エドガーは苦笑して、メイドに詫びを伝えるとドアのそばに立って彼を待っているウォーダンの隣に並んだ。
「では行きましょうか」
ウォーダンの自室は聖女の間のそばにある。
建物どころかその庭にさえ、通いの使用人数人しかいれず、部下は誰ひとりとして近寄らせたりしない。
聖女の間のある建物は、庭も含めて彼にとってセレフィアムが眠る特別な場所であった。
すっかり日も落ち、暗くなった中を道沿いの外灯と庭の照明が照らしている。
建物までの人の気配の全くない小道を歩きながら、ウォーダンはエドガーに話しかけた。
「疲れてるわけではないよな。何かあったのか?」
「そうですね。ウォーダン、あなたはアナスタシア様の体がどこにあるかご存知ですか?」
「聖女の間の近くだろう? 違うのか?」
「ええ、まあ……」
言葉を濁すエドガーに、ウォーダンは深く追求することなく続ける。
「確認した事はないが、あの建物から出ていない事は間違いない。今度調べておくよ」
「頼みます」
「それで、今日はどうしたんだ? 戻るのはまだ先だったはずだろう?」
「ええ。まずはどこから話したものでしょう……」
頭痛でもするかのようにこめかみを押さえるエドガーの隣には、《わたしの、わたしの事から!》と叫ぶセレフィアムが袖を引っ張っている。
やはり教育を間違えたようだ、とエドガーは顔をしかめた。
が。
「セレフィアム様の事なのですが」
エドガーはセレフィアムの事から話し始める。
結局、彼はどうしてもセレフィアムの願いを叶えずにはいられないのだ。
これを願いと見るか、わがままと見るかは人によるだろうが。
そしてセレフィアムの事を話題にされたウォーダンは、嬉しそうに表情を緩めた。
「ああ」
セレフィアムはウォーダンのその表情を見て、やはりこちらも嬉しそうに笑顔で頬を染めた。
喜んでくれるだろうか。
彼は、セレフィアムが生きてここにいる事を受け入れてくれるだろうか。
セレフィアムやエドガーにとって、アナスタシアがそこにいる事は当たり前であった。
それは、触れ合う事はできなくとも、生きていると認識しているといっても過言ではない。
特にセレフィアムは、聖女システムも含めて『生』であると認識している。
それは他の者からすればとても歪な『生』で、それでもセレフィアムやアナスタシアにとっては当然の『生』であった。
聖女たちには生きる事はそこで完全な終わりではない。
しかしそれが一般的な感覚とは大きく乖離している事も、彼女たちは理解できていた。
「実は、セレフィアム様の意識は長くこの街を離れていました」
「離れていた?」
「ええ。全ての聖女をシステムから解放する。その方法を探しに魔女のところへ行っていたのです」
「魔女……というと、この近くには魔女が住むという森があったな」
「アーフマンの森。そこです。ソーリャの結界を作るさいに力を貸してくれた魔女、彼女は不完全だった聖女システムからいずれ聖女たちを解放すると約束してくれていたようです。ですが、姿を現さないまま今日まで来てしまいました」
「その魔女が見つかったのか?」
驚いたように声を上げるウォーダンに、エドガーはうなずいて答える。
「状況は少し違うようですが、魔女の娘がソーリャにやってきています」
「すると、セレは……」
「今、ここにいます。あなたのすぐそばに」
エドガーはウォーダンの右手を示した。
そこにはセレフィアムがいて、彼に寄り添うように立ち、その顔を見上げている。
泣き出しそうな、笑い出しそうな、複雑な表情で。
ウォーダンは言われて、己の右手を見た。
そこには誰もいない。
震える手で、ウォーダンは自分の右腕に触れた。
「ここに、いるんだな」
「ええ」
「何も、感じない。熱も、感触も、気配もない」
「ええ」
「でも、いるんだな」
「います、あなたの腕にもたれるようにしてしがみついていますよ」
ウォーダンは自分の右腕を強く掴んだ。
ここに、いるのか。
会いたかったあの少女が。
生きて、いるのか。
「セレ」
《ウォル》
ウォーダンはこみ上げてくる感情を呑み込み、ただ己の腕を掴む手にさらに力を込める。
「生きて、いるんだな……セレ」
《ごめんね、ごめんね、ウォル。心配かけてごめんね》
エドガーはそんな2人をしばらく黙って見守り続けていた。




