知っていること、知らなかったこと
それからソウルは、毎日朝早くから森へ出かけて男から剣を学ぶようになった。
普通、子どもたちは昼までは家の仕事を手伝うものだが、ソウルの家はそうもいかない。
義父は神官として神殿で働いていたし、母も出産が近くなるまでは神殿で治癒者として勤めていた。
神殿の仕事を手伝うのは、将来神殿に入ることになっている子どもだけだ。
ソウルはしたがって、家の仕事や子守り、近所の農家や親族の家の手伝いをしながらこれまでは過ごしてきた。
だが、今は彼には目標がある。
ソウルはあれから義父と母と話し合い、剣の師匠がいること、剣を学んで身を立てたいので午前中はその人物の元へ通いたいことを伝えた。
もちろん、反対された。
反対したのは母だ。
神殿で兵士として務め、心に傷を負った父のようになってほしくない、彼女はそう言って泣いた。
ソウルにしてみれば初めて知ることだ。
父が神殿で兵士として働いていたことは知っていたが、辞めた理由までは知らなかった。
それ以上話そうとしない母の肩を抱き、困ったように微笑んでソウルを見たのは義父のホレイショだ。
「剣で身を立てる、というのはお父さんのように神殿の兵士になりたいという事かい? それとも、公爵様のところへ行って騎士になるという事?」
「どっちでもないです。俺は、騎士も兵士もよく分からない。これまで考えたことがなかったから。だからこれから考えたいし、知っていきたい。でも、ずっと剣を振ってきたし、これからも剣を握って、もっと強くなりたいんだ」
「それは、どうして強くなりたいんだ? 何のために?」
ホレイショは穏やかな調子で訊いた。
問い詰めるような口調にならないよう。
どうして強くなりたいなんかなんて、人それぞれだし、大体が本能のようなものだろう。
剣の才能を持って生まれた少年が、剣の道に進みたいと願う、ただそれだけのことだ。
だが、そこに目標を定めず、愛も信念も持たずに力を手に入れて振るえば、人はたやすく傲慢に堕ちる。
血の繋がりがない、おそらくは疎まれているだろう相手でも今はホレイショの子どもであり、そうでなくとも彼が神官である以上、ソウルは導くべき1人の村の子どもであった。
間違えないよう、足を踏み外さないよう、気づきへ導くためのささやかな道しるべであるとしても。
ソウルは少し驚いたような顔を見せた。
「……この村で、俺は嫌われていたけど、そうじゃない人もいて……、だけどいつもちゃんと思いを返せていなかった気がする。他の人のどうでもいい感情に振り回されて、巻き込まれて。剣が強くなりたいんじゃなくて、剣を通して強くなりたい」
優しい人に、正しい人に、間違えずに向き合えるように。
「誰かに左右されたり、人に支配されたり、そうじゃない強さを手に入れたい」
イレイナはその言葉に目を見張った。
さらに号泣しだした母に、どうしていいか分からずソウルは戸惑う。
それに苦笑して、ホレイショは妻に話しかけた。
「ダイナのことを、話してもいいかな」
イレイナは顔を上げてホレイショを見つめる。
彼は大丈夫だと言うように、優しい目で彼女をまっすぐに見つめていた。
イレイナは両手で顔を覆い、震えながらうなずいた。彼女には話せない。
今だけでなく、どれだけ時間がたとうとも彼女には話せないことだった。
「ソウル、これから話すことは君にとって辛いことだろう。だが、落ち着いて聞いてほしい。そして、君の父はやり方を間違えたとしても、家族を守り抜いた英雄だったことを、どうかこの話から感じ取ってほしい」
それは、ソウルにとって衝撃的な話だった。
あの優しく強い父が、権力に屈して悪魔のような人物の手先になっていたこと。
母もそれを知っていたこと。
当時の神殿が、一部とはいえおそろしく腐敗していたこと。
その腐敗は、ソーリャの議会が裏から手を回した結果だったこと。
誰にも親切で善良な父が、罪の重さに苦しんでいたこと。
聞きながら、ソウルは涙を流していた。
父への怒りだろうか。
何も知らず父に期待ばかりを寄せて重荷になっていた自分への怒りだろうか。
ソーリャを蝕んでいた者たちへの怒りだろうか。
いや、これは全ての悪そのものへの怒りだ、とソウルは気づいた。
ならばどうするのか。
悪の全てを破壊し、殺すのか。
そうでもしなければこの怒りは収まらないことは分かっていた。
だがそうではない、そうではないのだ。
深呼吸をすると、ソウルは姿勢を正してまっすぐに義父を見た。
ホレイショは続ける。
「神殿は、今は腐敗を一掃して、2度と同じ轍を踏まないよう身を処している。だが、物事に絶対ということはない。人が変われば組織も変わる。そして組織に属するということは、自分1人の意思や考えではどうにもならない事ができるということだ。君の行動は君のものではなく、組織に支配されることになる。どうか、それを知っておいてほしい」
ホレイショは話し終わると、泣き止んだイレイナの背中を撫でた。
「ぼくとイレイナが結婚したのは、初めは君たち家族を守るためだった。村の人たちはどうにも排他的でね。戦が終わればすぐにもリドルウッド様がいらっしゃる予定だったんだが、戦は長引くし、終われば本国で跡目問題が起きるしで、結局今日までかかってしまった。当初、ソーリャから将軍が直接来ることも話に上がったが、それでは作り物じみたものになるし、何より君は将軍が嫌いだろう?」
ソウルは少し赤くなった。
「今は、そういうわけでも……」
それを聞いてホレイショは声を上げて笑う。
「それは良かった。彼はいい上司だからね、気になっていたんだ」
「義父さんは、将軍が好きなの?」
「ああ。神殿の神官は、みんな彼が好きだよ。何しろ聖女にソーリャを託された人物だからね」
「聖女……」
言われて、ソウルは久しく忘れていた感情を思い出した。
ソーリャに都市王がやってきたあの日。
花が降り、紙吹雪が舞い、歓迎の言葉があちこちで響いたあの日。
多くの人々は確かに、都市王の誕生を受け入れた。
それが、ソーリャの、聖女の意思だと理解したから。
ああ。
と、ソウルは身のうちでため息をついた。
あの日から、自分はどれだけ見て見ぬフリをしてここまでやって来たのだろう。
ソウルは並んで座る義父と母を、己の家族を見つめて告げた。
「俺、強くなるよ。将来、何になるかはまだ分からない。でも、もう間違わない、目を逸らさない強さを手に入れる。そして、誰にも屈せずに済む力を」
胸の中には、割り切れない父の過去がまだうずいて傷のようにうごめいている。
それがどれほど難しいか知って、それでも。
ホレイショはただ優しく微笑んでうなずいた。




