イレイナの怒り
ダイナの家に遺体を運び込む前に、ダイナの両親に事情を説明する事になった。
現在ダイナの妻は妊娠中である。
万が一の事があってはいけないと、軍の人間がいきなり押しかけるのではなく、親しい人物や神官も同席の上、説明する方がいいだろうとなったのだ。
ダイナの妻はイレイナという名の落ち着いた雰囲気の女性だった。
彼女は義理の両親とともに神官と帝国軍の人間がやってきたのを見て、子供部屋で息子が寝ているのを確認するとドアをしっかり閉じた。
「夫に、何かあったのですか」
いつかこんな時が来る事を予測していたのか、イレイナは顔を強張らせて訊いてくる。
それに答えたのはダイナの父だ。
「イレイナ、落ち着いて聞いてくれ。ダイナが……結界の外で狩をしていたようなんだが、そのとき帝国の貴族が賊に襲われているのを見て助けに入り、あの子は……怪我をして、そのまま……」
「死んでしまったんですね」
「すまない、イレイナ。馬鹿な息子で、本当にすまない……」
イレイナは首を振った。
「いつかこんな日が来るだろうと思っていました。あの人は、ダイナは、いつも誰かのためになろうと必死で……」
言いかけて、イレイナは口元を押さえるとその場に崩れ落ちた。
こらえきれない嗚咽が込み上げてきて、けれど懸命に声を殺して涙をこぼす。
ウォーダンと神官は、言葉をかけられないままイレイナが落ち着くのを待った。
しばらくしてダイナの遺体に付き添いながら、レノスが家の前までやって来た。
「もしよければ、神殿で預かり、遺体を綺麗にして葬儀を執り行うが」
ウォーダンの言葉に、イレイナは顔を俯けて断る。
「いいえ、神殿の手は借りたくありません。悪いのは神殿でも、帝国の方でもないのは分かっています。でも、関わって欲しくないのです」
「イレイナ、そんな言い方は……」
「いや、ご尊父。彼女の言う通りだ。ダイナ・フーセは神殿や帝国に関わらなければ、平和で穏やかな素晴らしい人生を送れただろう。彼は立派な人物だった」
「恐れ多い事です……」
「だが、イレイナ殿。ご主人は最後まであなたと子供たちの事を気にかけていた。彼が守ったのは、帝国でも重要な人物だ。我々が、あなた方のため力を貸す事をどうか許してほしい」
イレイナはうつむいたまま、しばらくして口を開いた。
「あの人は……最後に、満足そうでしたか」
ウォーダンは一瞬戸惑った。
なんと言ったものかと躊躇いがちに言葉を探す。
「彼は……」
許されたい。
そう言っていたなどと、どうして言えるだろう。
そのときイレイナが顔を上げ、まっすぐにウォーダンを見た。
「閣下。あなたは10年前、夫と会っていますか」
ウォーダンは息を呑み、そして答える。
「ああ」
「あの人は、ずっと苦しんでいました。苦しんで、苦しんで、罪を償おうといつも人の事ばかり。あなたは……」
イレイナの目から再び涙がこぼれた。
「あなたは、夫を今も憎んでいますか。復讐したいと、そう思っていますか」
考えるより先に口から言葉が漏れ、ウォーダンはようやく己の感情を自覚する。
「いいや」
ああ、そうだ。
ウォーダンは、一度もダイナを憎んだ事はなかった。
ウォーダンが憎かったのは、ソーリャの聖女を犠牲にするシステムだ。
聖女たちを、弱い立場の者を騙して利用する、ルードゥ・ハストや議会の人間たちだ。
決してダイナたちではない。
「憎んだ事はない。ただの一度も。わたしに限って言えば、ダイナが罪に苦しむような事など何もなかった」
暴行されたのは事実。
彼が言われるままに他者を害したのも事実。
けれどウォーダンに関してならば、10年たった今も苦しみ続け、生きている間ずっと償い続けるような事はない。
本来罪の意識に苛まれるべき人間は他にいるのだから。
「夫を、許していただけますか」
イレイナの言葉も表情も、どこか挑戦的だった。
ウォーダンは心の中で苦笑する。
怒らねば、生きていけない事もある。
ならば、それが必要な間は心ゆくまで怒り、憎めばいい。
「ダイナ・フーセは、わたしに許される必要など何もなかった。彼は立派な人物で、ソーリャのために尽くした英雄だった」
イレイナはようやく肩から力を抜いた。
「……ありがとうございます」
「礼を言うのは我々の側だ」
ウォーダンがその場から横に移動すると、背後にいたレノスとその部下たちが前へ出て来て頭を下げる。
「ご主人のおかげで、我々は誰ひとり欠ける事なく皇帝陛下の命を果たすべく次へ向かう事ができる。ご主人の戦う姿はまさに戦神の如く、彼が助けに入ってくれなければ、間違いなく全員が命を落としていた。心から感謝する」
イレイナは力なく首を振った。
「夫は、ようやく解放されたのでしょう」
そして促されるまま表へ出ると、辺りはすっかり日が落ちている。
近所の人間が何事かと集まってきていた。
白い布にくるまれた大きな何か。
兵士がそっとその布を取り、中から顔だけをのぞかせる。
イレイナはそれを見て、今度は声を上げて泣き出し、すがりついた。
「どうして! どうして! 許されなくていい、一緒に生きていてくれればそれで良かったのに!」
醜い願いだ。
そんな事は分かっている。
だがそれでも、夫が苦しんでいる事も、今でも時々夜中にうなされている事も知っていて、それでもイレイナは自分のためにダイナに生きていて欲しかった。
穏やかな夫の死に顔が憎い。
自分のために、生きて苦しんで欲しかった。
一緒にいくらでも苦しむ覚悟があったのに。
それでも、いつかこうして誰かのために死ぬのだろうと思っていた。
イレイナを捨てて、子供たちを捨てて、1人で勝手に解放されて死んでいくのだろうと。
いっそあのとき、神殿で出世してルードゥ・ハストの下で苦しめられていたあのとき。
あの男に屈するのではなく、一緒に死んでくれと言ってくれれば良かったのに。
ルードゥとその一族を呪って、神殿の広場で死んでいれば。
そうすれば、ダイナだけをこんなに長い間苦しめずに済んだのに。
「ああああああ、あなたああああ!!」
通りに女の悲痛な声が響く。
背後の家からは、夕方からまた熱を出して寝ていたはずの彼女の息子が、朦朧とした様子でドアの影からその様子を見ていた。
「かあ、さん……?」
その小さな呟きにウォーダンが振り返り、子どもと目が合った。
熱に浮かされ、ゆらゆらと揺れる瞳。
子どもが倒れるその瞬間、かりうじてウォーダンが間に合いその身を支える。
子どもは意識を失っていた。




