望みは
「じゃあよろしく頼むよ」
レノスが機嫌良く帰って行ったのは数時間前だ。窓の外はもう暗くなり始めている。
ウォーダンは結局、アスガレイドに勝利したのちはレノスに公爵領をひとつと農地の豊かな伯爵領をひとつ、交通の要所となっている子爵領をひとつに、鉱山のある領地をふたつ、くれてやる約束をした。
アスガレイドはゴール大陸一の大国で、その程度は手放しても問題ないほどの広さと経済力がある。
国の始祖は強大な魔力を持つ賢者とハイエルフだったらしく、王族には今もその力の片鱗が残され、近隣で豊かな地があればこれを力ずくでものにしてきた国なのだ。
かつては崇高な理念のもとに興国されたが、今は見る影もない。
レノスは戦後処理のさい彼個人に約束された権利の分配を盾に、侯爵軍をコントロールするのだと言っていた。
リドルウッド侯爵家の私兵だけでも、現侯爵のあからさまな弟贔屓で扱いが悪いというのに、そこへ持ってきての母の実家からの援軍だ。
だが援軍とは名ばかりで『公爵家の血筋の我々が、公爵軍である我々が、わざわざ手伝いに来てやっているのだから侯爵家の下に入る必要など全くない』と言わんばかりの勝手気ままな有様だ。
どう考えても足を引っ張りに来ているとしか思えない。
レノスはそう言ってこめかみに青筋を立て、いつも崩さぬ笑みを引き攣らせていた。
どうやら相当腹に据えかねているらしい。
途中、『正直アスガレイドに行くのはやめたい』と言い出したときは、こいつは何を言うのかと思ったが、ソーリャに引きこもって温かい料理と美味い酒を飲んでいたいのだそうだ。
ウォーダンは腹を立てて彼を追い出したりはしなかった。
なにしろ彼は、レノスがアスガレイドで戦争をしている間、ソーリャで温かい料理を食べていられるのだ。
そう、フューシャの火酒とともに。
少しだけ優しい気持ちになれて、戦後処理をつい大盤振る舞いしてしまった気はするが、それでもいい取引だったといえる。
今回の取引で、戦争が勝利に終わればレノスはゴール大陸でも火酒を造らせる約束をした。
そしてその生産量のうち最低でも30本以上が、ウォーダン個人に毎年譲り渡される事になった。
レノスが陣地へ帰って行ったあと、ウォーダンは丸い氷を作り出してグラスに入れ、そこに火酒を注いだ。
酒精の強い酒の香りが辺りに漂う。
面倒だ、嫌だと言ってもやらねばならない事は山積みだ。
だから人は、自分を誤魔化し、何かで麻痺させて問題から目を逸らす。
逸らし続けてはいられないその瞬間まで。
そしてウォーダンの問題は、目を逸らしたところで何も変わらない、息絶えるその瞬間まで目を逸らし続けていられる類のものだった。
ウォーダンがひと口、酒に口をつけてゆっくりと飲み下ろし、その焼けるような喉越しを味わっていると、机の上の通信機が鳴った。
『将軍、レノス様が戻ってきました。結界を出てしばらくのところで暗殺者に襲われたそうです』
「状況は!」
『護衛の騎士に重傷者が1人、レノス様も含めて残りの騎士は軽傷です。ただ、応援に駆けつけた農民が助かりそうにないと』
「農民? わかった、すぐ行く。今はどこだ」
『先ほど結界を通過し、今は農地へ向かっています』
「神官を連れて行く、死なせるな」
『努力します』
治癒の魔法は、感覚で扱える攻撃魔法と違い、人体の知識があればあるほど効果が増す。
神官たちは神殿でそれを学び、大抵の怪我や病気なら回復させることができた。
だがそれも限度がある。
死んだ人間を生き返らせるには息が止まってすぐでなければ不可能だし、それにも条件があった。
肉体の傷があまりにひどければ、蘇生に成功したところですぐに息を引き取ることだってある。
魔法はけして万能ではないし、奇跡を起こす神の業ではないのだ。
ウォーダンが神官がとともにレノスのもとにたどり着いたとき、彼らは農地の中ほどにいた。
地面には男が1人寝かされていて、もう息がほとんどないことが分かる。
「レノス」
名前を呼びながら近づくと、レノスは血と泥に汚れて男の手を握りしめていた。
「彼が助けてくれた。暗殺者は複数いて、全員手練れだった。彼がいなければぼくらは全員殺されていただろう。農民とはとても思えないほど、凄まじい魔法と剣のキレだった」
「そうか。神官を連れてきた。そこを代わってくれ」
レノスはのろのろと男の手を離し、神官に場所をゆずる。
素早く処置に入ろうとした神官を、男の手が止めた。
「かまいません、このままで……」
「大丈夫ですよ。何も心配する事はありません。将軍閣下はあなたを助けたいとお考えです」
しかし男は、寝かされたまま小さく首を振った。
その動きがいかにも苦しげで、早く手当てをしなければならないと分かる。
「いいえ。もう、どうかこのままにお願いします。もう、もう許されたいのです」
「許されたい? あなたは素晴らしい事をしました。許されない事などありません」
それでも男は首をふる。
ウォーダンは都市機能から男の情報を引き出していた。
ダイナ・フーセ。
妊娠中の妻と息子がいる。
そして……元兵士。
10年前あの日、草原で彼を殴り、蹴り飛ばした兵士の1人だ。
どう考えていいか分からず、ウォーダンは男のそばに膝をついた。
あの日、どうしようもない無力感を味わわされた相手。
怒りは確かにある。
だがそれは誰へのものだろう。
ソーリャか、死刑になった男か、それとも目の前のこの男か。
復讐心も、確かにある。
だがそれは、本当にこの男へのものなのか?
横を見れば、悔しげな表情のレノスがいる。
さっきまで一緒に食べて飲んでいた彼が、その土産の酒を飲んでいるその瞬間、まさに命を失いかけていた。
強い安堵を感じている自分に、ウォーダンは生を歩み、今を歩み続けている事を自覚した。
生きる目標を失っても、自分はまだ生きている。
「とし、おう……さま」
男の苦しげな声がした。
彼は神官の治療を拒んで刻一刻と死に近づいている。
「妻と息子がいるのだろう。生きろ、絶対に助けてやる」
だがやはり男は首を振る。
「つぐないきれない罪を、……犯しました。都市王様、あなたにも」
ウォーダンはほんのわずか、眉間にしわを寄せた。
彼は覚えているのだ、ウォーダンのことを。
「数えきれない……数えきれないのです。毎日……毎日……夢の中で罪を数え、目覚めてもあらゆる場所に罪を見るのです。もう……もう許されたいのです。どうか……どうか、もう……」
男は言いながら涙を流した。
寝かされたまま、仰向けになった姿勢で、ただ涙が溢れて流れていく。
ウォーダンの隣で、神官が首を振った。
もう助からない。ウォーダンにもそれが分かった。
何より、本人に生きる意思がない。
無理矢理治療する事もできた。
だがウォーダンは伸ばした神官の手を止めた。
これは復讐なのだろうか?
「友を救ってくれた事、感謝する。お前の妻と子の面倒は必ず見る。他に何か望みはあるか」
するとダイナは少しだけ笑みを浮かべた。
「ソーリャを」
息を吸って、吐くようにしながらもう一度繰り返す。
「ソーリャを、お願いします」
視線が合った。
その目はまだ見えているのだろうか。
「分かった。お前の思う形とは違うかもしれないが、ソーリャも、そこに住む人々にも良いようにする」
ダイナの目が細まり、また涙がこぼれた。
「妻と、息子に、すまないと……」
大きく息をつくように言葉を吐き出して、そしてそれは途切れた。
ダイナ・フーセは死んだ。
神官が祈りを捧げる。
レノスたちもそばへやってきて力なく膝をついた。
周囲にはわずかに農民たちもいて、何人かは涙を拭いている。
ウォーダンはそっとダイナの目を閉じさせた。
死を許した。
死を望むものにそれを許した。
もしかしたら、どうにか救えるかもしれなかった命に。
これは、自分の罪だ。
ウォーダンは立ち上がると部下にダイナの遺体を運ぶよう言いつけた。
戦で多くの命を奪ってきた身だ。
己の罪深さは誰よりもよく知っている。
許されたい。
ダイナの言葉がウォーダンの心に澱のように沈んでいった。




