ダイナ・フーセ
ダイナ・フーセは今でこそ農民だが、若い頃は神殿の兵士として将来を嘱望されていた。
恵まれた体格に力もあり、子どもの頃からケンカは負けなしで、兵士になってから正式に手ほどきを受けた剣にも才能があった。
その人生が狂ったのは、ルードゥ・ハストという男の部隊に配属されてからだ。
ハストは支配的で残忍な性質の人物で、議会議員の一族に生まれたその権力を持って、周囲の人間の弱みを握り言いなりにしていた。
ダイナは当時、結婚したばかりで、都市外の巡回警備を主とするバイク部隊、特殊車両隊へ配属になった事で神殿兵の中でも一部の人間しか扱うことのできない様々な乗り物や武器を扱うようになった。
このままいけば、いずれは神殿兵の花形である神殿警備部隊に籍を置くことも夢ではない。
そう信じて、明るい未来を思っていた。
しかしハストはそんな彼に、訓練と称して執拗に暴力を振るい、痛みと恐怖で支配しようとした。
もちろん、選ばれて部隊に配属された人間が、殴られようと蹴られようとその尊厳を踏みにじられ潰れる事はそうそうない。
彼らはそんなものには負けないだけの肉体と鋼の精神を認められてここにいる。
だが、人はどうしてもどこかに弱点があるものだ。
家族や友人、恋人。
鍛えられた鋼のような男たちの、柔らかな弱点。
酒に煙草に女に賭博・借金といった、つけ込む隙を持たない者が選ばれたはずの彼らも、いやだからこそなのか、人としての鍛えられない弱みを持っていた。
ハストはそこにつけ込んだ。
家族や友人に借金があるならその手形を手に入れる。
あるいは秘密を暴くと脅す。
またあるいは犯罪者につけ狙わせて、もっと酷い事になるぞとささやく……。
手段はいくらでもあった。
一度でも取引をしてささやかな罪を犯させれば、あとはハストの言うがまま、次第に洗脳されて服従する以外に選択肢が無くなっていく。
両親や、結婚したばかりの妻に次々と危険が降りかかるのを止められず、ダイナは心を殺し、ハストに従う覚悟を決めた。
心を殺さなければ生きていけなかった。
怖ろしかったのは、それがとても容易かった事だ。
踏み躙られるという事は弱いという事だ。
力で全てを判断する世界では、弱いという事は価値がないに等しく、弱者は強者に食われるだけの肉である。
目の前に肉があるなら食べるのは当然のことだ。
草食動物は生きるために草を食う。
なら、肉である弱者は強者に食われるためだけに存在するのだ。
互いを思いやる両親、助け合う近所の人々、妻が帰りを待つ温かい家。
そこで暮らすダイナ・フーセは、神殿兵のダイナ・フーセとは別の人間だった。
切り離して、全く別の顔で生きていた。
仕事はとても楽になった。
そんなある日、大きな地震のあとで草原の警備を命じられた。
命じられた内容には何も感じなかった。
言われたことをやるだけ。
聖女様を唆している人間がいる、と聞いて、久しく感じていなかった正義のような怒りが込み上げてきた。
それはとても心地良かった。
だから、言われるままにその犯人と思しき少年を暴行した。
殴った、蹴った。
これは正義なのだからと、心は痛まなかった。
聖女様が泣いていたが、騙されているのだからと気にならなかった。
何より、部隊長であるハストの命令が最優先であった。
それが間違いであったと考えられるようになったのは、それからだいぶたってからだ。
ハストが死刑になり、兵士をやめ、神殿内部の治療施設に入院を命じられ、毎日のように家族に優しく労られる。
母親が泣いていて、父親が苦虫を噛み潰したような顔で、妻は無理をして笑っていた。
ある日、神殿の広場で祈りを捧げる母子を見た。
その母親の顔に見覚えがあった。
ハストに命じられて殺した男の妻だった。
あの男に子どもはいなかったはずだ。
あのあと生まれたのか? それとも再婚して子どもを産んだ?
子どもと手を繋ぎ、優しく笑いかけながら帰って行く女の顔に、過去の姿が浮かんで思い出される。
彼女は、ダイナたちが殺した男の死体に取りすがって泣いていた。
犯人は不明だと聞かされて、狂ったように泣いていた。
どうかしたのかと隣から妻に声をかけられ、そちらを見る。
自分を見上げてくる小柄な妻が、その泣き顔と重なった。女の泣き顔と、子どもの泣き顔と、聖女の泣き顔と、母親の泣き顔と、彼がこれまで傷つけてきた全ての泣き顔と。
彼の力はその泣き顔を増やさないため、弱い者を守るために使うはずだったのに。
その場に崩れ落ちた彼の背中を、妻が心配してさする。
ダイナ・フーセはその日、兵士である事をやめた。
あれから10年。
ダイナは都市の外に新しくできた農地で働いている。
子どもも1人生まれて、今は妻が2人目を妊娠中だ。
穏やかで平和な日々はあまりに幸せで、時折彼の罪深さに気が狂いそうになる。
それでも、この街のためになればと歯を食いしばって生きてきた。
この街のため、そして家族のために。
だがやはり己のした事からは逃げられない。
家族を愛しいと思えば思うほど、息子を愛しいと思えば思うほど、罪は影のように黒黒と光の中に存在を浮き立たせる。
光り輝く都市王ウォーダンのもと、ダイナは自分が道にどろりとへばりついた影のように思えて仕方ないのだった。




