セレとウォル
「ウォル!」
名前を呼ばれて、ウォーダンは振り返った。
都市の外側、風に波打つ緑の草の波、まだ都市ソーリャの目に見えない結界の内側。
どうやってか、少女はいつも1人でそこまでやってくる。
「セレ、今日も1人なの?」
10歳の育ちのいい子どもが、供も連れずにうろうろしていていいわけがない。
初めて会った日から、セレは一度も誰かと一緒だったことはなく、あの日も1人でぼんやりと草原を見つめていた。
「結界の中だからって、子ども1人でうろつくのは危ないよ」
年上ぶってそんな事を注意するウォーダンに、セレはくすくすと笑った。
「平気よ、この街でわたしに悪いことなんて起きないんだから」
「またそんな事言って」
眉をひそめたウォーダンに、セレは甘えるようにその手を両手で取った。
「ねえ、それより今日はどこに連れてってくれるの。湖? 森? わたし、こないだの野いちごがもう一度食べたい!」
「全く、もう……」
口ではぶつぶつ言いながら、ウォーダンはセレに甘えられると嬉しくなる。
今日も、セレが来たらどこへ行こうとずっと考えていたのだ。
「今日は、あっちの森へ行こう。鳥のヒナを見つけたんだ」
「ヒナ!? すごい、見たことない!」
ウォーダンは得意になってニヤリと笑う。
セレは何を見ても聞いても「すごい!」と言う。
最初は物知らずの都市の貴族の子どもだと思っていたが、どうもそれとも少し違うようだと気がついたのは、森の小道で木漏れ日を見上げて目を輝かせていたときだ。
珍しくもないそんなものを、飽きもせずにずっと眺めて「これは何!?」と言った様子に、ウォーダンは不思議なものを感じた。
その後も、川の水が冷たいと言っては喜び、草原が広いと言っては笑い、風が吹いていると言ってはくるくる回る彼女に、疑問は募るばかり。
一緒に旅をしている祖父にセレの事を話せば、「外に出たことがないのかもしれんなあ」と言っていた。
貴族の女の子には時々あることなのだそうだ。
大事にされるあまり、外出する事がない子どもが。
その時はただそうなのかと思っただけだったが、それにしてはセレはいつも1人で都市の外までやってくる。
抜け出してくるにしては、貴族街からは子どもの足にはあまりに距離があった。
旅慣れていて脚力には自信のあるウォーダンでさえ、この都市は外周の下町だけでも広すぎる。
遠い昔、人類が一度滅びかけたときに、この街はできた。
ターニャ・ソーリャという娘が天のお告げを聞いて、人々を山の中腹より上へと避難させ、世界が水浸しになったあとに作った街なのだ。
生き残った人々はあちこちからこの街を目指してやってきた。
世界中あちこちにそういう場所はあるが、広大な草原に広がるこの街だけは、草原の外へと出る事なく都市国家として発展してきた。
それは、この街を包む結界にその理由がある。
ソーリャは外敵の侵入を阻む壁や砦を持たない。
人々を救ったターニャ・ソーリャがそれを望まなかったからだ。
彼女は街を結界で覆い、1人でも多くの人々を招き入れて救うことを願った。
壁で他者をさえぎるのではなく、砦で攻撃を返すのではなく。
草原の途中までを結界で包み、都市に害意ある人間を拒む仕組みを作り上げた。
世界で唯一、外壁を持たぬ都市。
それゆえ、この街は『無防備都市』と呼ばれていた。
セレの人を疑わぬ天真爛漫さは、まるでこの街そのもののようで。
けれど、そのあまりの無邪気さ、喜びようは、ウォーダンにどこか奇妙な歪みを印象付けてとらえられた。