紫の神官・エドガー
エドガー・ロズウェル神官は、ソーリャ神殿の最高位の神官である。
彼は、とても運が良かった。
ソーリャ神殿では聖女を神殿の頂点とし、神官は全て平等にその下にあるとされ、他の神殿や教会で見られるような、いわゆる神官長や神殿長、教皇や大司祭というような地位は存在しない。
が、それでは意見がまとまらないと、魔力の高さによりその序列を定め、神官服の色でその階位を分けた。
エドガーの着る紫の神官服は彼だけが着る事ができるものであり、彼よりも魔力が高く、かつ扱いに長けた人間が現れでもしない限り、彼だけの権利である。
そしてそれは、魔力の高い者が減った今のソーリャでは、あと数十年はこのままだろうともっぱらの噂だった。
「リード議長は聖女のご機嫌伺いに余念がないようですね」
嫌味な笑い方をして、エドガーは議長が去って行ったドアを目を細めて見た。
「そういう事は言わないものです」
彼を嗜めたのは、紫に次ぐ青の位階の神官服を身にまとった50代半ば、といった容貌の男性である。
「失礼しました」
エドガーは苦笑する。
神殿の神官たちは比較的善良な人物であることが多い。
27才で皮肉屋のエドガーが最高位についても文句も言わず、魔力量から当然のことと受け入れられるのは、基本に争うことを好まない神官たちの性質のためだ。
利己的にすぎる我欲の強いタイプは、そもそも神官になれない。
犯罪者気質が強いと、場合によっては神殿どころかソーリャからも叩き出される。
家族の懇願も、本人の嘆きも関係ない。
ソーリャという街は、そういった意味ではおそろしく冷酷だった。
エドガーとその家族はもとは難民であった。
ソーリャから遠く離れた村で、貧しいながらなんとか家族5人で暮らしていたが、ある日夜盗に襲われて村を逃げ出した。
逃げた先の町では身の置き場がなく、村に戻る目処も立たず、あちらへこちらへと仕事を探しながら流されるままにソーリャへ辿り着いた。
冬の事だった。
結界の淡い揺らぎが近くに見える辺りで、冬の難民受け入れは締め切ったと聞かされた。
冬の魔物は気が立っている。
結界の外はひどく吹雪きはじめて、ソーリャに着けばなんとかなると信じたかったエドガーの家族と仲間たちは動けなくなった。
結界の先にはここよりはまだ暖かな冬がある。
涙を流せば凍りつく寒さの中で、エドガーは妹を抱きしめながら見えなくなりつつあるソーリャの街を睨みつけた。
するとその時、人の背よりも少し高い位置に、少女の姿が宙に浮いて現れた。
その女性は栗色の髪が優しげな、15才かそこらのきれいな少女で、薄手の軽やかな服を身にまとっている。
エドガーが唖然としてその人を見つめていると、彼女はエドガーのほうを見て驚いたように言った。
『あなた、わたしが見えるの?』
こくこく、とうなずくと、その人はにっこりと邪気のない笑顔でエドガーのそばまでやってきて、彼の周りをくるくる動き回り、ぴたりと止まるとその目をじっと覗き込んだ。
『ふうん。あなた、とっても魔力が強いのね』
そしてちらり、とエドガーの妹を見る。
『その子、妹?』
「う、うん」
『そうね……この年ならまだ平気かも。いいわ、助けてあげる、あなたたちみんな』
そしてその少女はソーリャの街を指差した。
『あそこの街へいらっしゃい。レピド神官に会いにきた、と言うのよ。いいわね?』
エドガーが何を言われたのかよく分からずにぼんやりとしていると、少女は怒ったように手を腰に当てる。
『い・い・わ・ね? 早く来ないと魔物のエサになるわよ』
遠くで狼型の魔物の遠吠えがした。
エドガーは慌てて何度もうなずく。
それを満足そうに見やって、宙に浮かんでいた少女は消えた。
「今の、何だったんだろう……」
つぶやいたエドガーを、きょとんと見つめる妹。
「お兄ちゃん、誰かとお話してたの?」
「え、誰って今……」
言いかけたとき、再び魔物の声がした。先ほどよりも近づいているような、そんな気がする。
エドガーは急いで父の元へと向かうと、結界内への入場審査を行っている管理官と連絡を取ってもらうよう頼んだのだった。
エドガーは運が良かった。
エドガーだけでなく、その家族と仲間たちも運が良かった。
だが、誰より運が良かったのはエドガーの妹のナナエだ。
エドガーよりも1つ年が下なだけのナナエは、魔力量の多さにも関わらず、年齢が合わないと言われて聖女になれなかった。
いや、ならずに済んだ。
20年前、リピド神官により都市へ受け入れてもらったエドガー達は、神殿内に住まいを与えられた。
特に、魔力量の多かったエドガーとナナエ、そして2人の父は神殿で神官となった。
エドガーはソーリャと、ソーリャ神殿に感謝している。
それでも、この聖女のシステムは間違っていると感じていた。
最高位の神官となった今でも、彼1人では何を変えることもできない。
聖女の結界に変わるものを用意できないからだ。
砦を、壁を築けばいいと、ただそれだけの事と分かっていても実行には移せない。
それには資金が必要なのだ。
資金を得るには理由が必要で、その理由を説明して通す先は街の議会だ。
都市の最大の幸福は最大の利益からだとうそぶく彼らにとって、その利益の配分は最大限自分達に多く割り当てられるのが当然だと信じる、口にしない正義がある。
「醜くても正義なのか……?」
ぼそりとつぶやいたエドガーに、青の神官ナセルが視線をやる。
「何か仰いましたか?」
「いえ、失礼しました。独り言です。少し考え事を」
「そうですか。では始めましょう。昨日の地震で人的被害はありませんでしたが、建物や設備の被害は甚大です。神殿から炊き出しを行なっておりますが、今後、近隣の町や村・国々から食料の買い取りの必要が出てくるかもしれません」
「ですが、他の地域も被害はあったでしょう」
「むしろ、ソーリャよりもひどい可能性が考えられます」
「すると、避難民の数はさらに増えるでしょうな……」
「これ以上の住民の増加に対応するなら、都市の拡張が必要です」
「アナスタシア様は災害で人々を守って、弱っておられる。そんなときにそれは不可能だ」
「同感です。我々が何より守るべきは市民です。都市の外の人間ではない」
ああ、それは醜い正義なのだろう。
ソーリャは懐に入れた者には優しいが、それ以外には排他的な街で、それを隠そうともしないところがある。
だが、人の手の平で守れるものは限られているのだ。
神官たちの議論を無言で聞きながら、エドガーは都市の拡張は聖女ではなく街がやればいいのだ、と考えていた。
だがここで神官たちを説得できても、議会の賛成は得られないだろう。
無駄と分かっていながら、彼は都市の拡張と壁の建設を人力で行う方向で話し出した。
議会の説得は誰かにやらせよう。もしかしたら上手くいく可能性だってないわけでは……ないはずだ。
いっそ議会の人間を全て始末できれば簡単なのに。そんなふうに考えてしまう自分を脳内で責めていると、優しげな少女の笑い声が聞こえた気がした。
『そんなんだからあなたは聖女の代わりになれないのよ』と。




