番外編 学生時代
読んでいただいてありがとうございます。頭の片隅にちょこっとあったリセたちの学生時代の話です。
図書室で、リセとレオンハルトは友人たちと共に試験勉強をしていた。
もうすぐ後期の試験日が近く、全員が最後の追い込みをしている最中だった。
「あ、いた。リセ・ソール。キャンドラ先生が呼んでたぞ」
新たに来た男子生徒が、リセの名前を呼んだ。
「ありがとうございます」
「いいよ。どうせ図書室にいるのは分かっていたから、ついでだ」
ここのところ毎日、閉館時間まで図書室で勉強をしているので、リセの居所は誰にでも分かる。
リセ・ソール、というのは当然偽名だ。
ソルトレイ家の令嬢のことは貴族なら誰でも知っている話だったので、その名を名乗ることによって同情されるのは嫌だったし、おしゃべりな方々に詳細を聞かれるのも嫌だった。
結婚はしているがそれは仮初めでしかなく、夫の名を名乗ることによってそちらに迷惑がかかるのも嫌だったので、国王の承認のもと偽名を使っている。
リセにとってもっとも嫌なのは、レオンハルトに迷惑をかけてしまっていることだ。
今の時点でだいぶ迷惑をかけているという思いがあるのに、ここでさらにヴァルディアの名を名乗ってしまったら、これまで以上にレオンハルトに迷惑がかかる。
これから先、彼に本当に好きな人が出来た時、自分との結婚が絶対に障害になるのは分かっている。
助け出されてしばらく経った頃、レオンハルトの両親に彼との結婚を勧められた時は、それでソルトレイ家の領地や領民が守られるのならば、と思って承諾した。
実際こうしなければ、ヴァルディア侯爵夫妻がリセの代理人として貴族や商人から土地を返してもらい、健全な領地経営をしていくことが難しかった。これで領地は安心だというほっとした思いと同時に申し訳ないという気持ちが強く、せめてレオンハルトにこれ以上、余計な重荷をかけたくないと思っている。
ソルトレイ家に関しては、本来こういうことがないように血族しか継げないことになっている爵位が、全く血を継いでいない、それも平民が乗っ取ったということが大問題になり、監視の役目を負っている貴族院、爵位に関する決定事項を持つ王家、ともに大騒ぎになったそうだ。
出来る限りリセの希望に沿うようにすると言われたので、偽名で学校に通い、離婚した場合はこの名前を正式な名前として登録する許可をもらっている。
エセルドレーダという名は両親からもらった大切な名前だが、この名前が持つ事情が大きすぎる。離婚したら両親のお墓の隣に小さなお墓を建てて、エセルドレーダという名を葬ろうと決めていた。それがいつになるか分からないが、せめて両親と一緒に眠らせてあげたいと思っていた。
リセは、ソルトレイ家の唯一の生き残りだ。
助け出されてまだぼろぼろの状態であっても、大人たちが動くには、建前上でも彼女の許可が必要なこともあった。だが、当時のリセではそれが出来なかった。彼女を後見しているという名目でいいようにされてまたソルトレイ家が好き勝手されるのを防ぐためにも、レオンハルトとの結婚によるヴァルディア侯爵夫妻の後ろ盾が必要だったのだ。
ヴァルディア侯爵家によるソルトレイ家の領地運営には、王家と貴族院が監視する方向で話がついたので、不当なことは出来ないようにしていた。
だがリセ本人は、結婚してこれからエセルドレーダ・ヴァルディアと名乗るのだと言われて、初めてことの重大さに気が付いた。
後悔しかなかった。
そして同時に、もう少しだけこのぬるま湯に浸かっていたかった。
「リセ、何かやったのか?」
レオンハルトの心配そうな声に、リセは口元に指を当てて考え込んだが、特に思い当たることはない。
「何もやってないとは思うんですが……」
「進路のことじゃない?リセは文官希望でしょう?」
友人のルーチェリエに言われて、進路希望のことを思い出した。
ここにいる多くの友人たちは、ほとんど就職先は決まっている。といっても、今回の試験を無事に乗り超えられたらという条件付きだが。
ルーチェリエは家が商売をやっているのでそっち方面に進むし、男性陣は騎士や文官になったり、実家の家業を継ぐなどする予定だ。女性の中には卒業と同時に結婚する子もいれば、領地に帰る子もいる。
その中でリセは文官を希望した。女性が王城で仕事に就く場合は侍女などが多いので、女性文官というのは数が少なく、希望者が出た場合は王城の各部署で調整を図ることになっているそうだ。
女性の雇用に積極的ではない、ということではなくて、逆にうちにも欲しい、という声が多いので調整に苦労しているらしい。
最近は、女性ならではの視点も持たないと、奥様や恋人からの視線が痛いらしい。
今回も希望者はほんの数人しかいないので、個別に話をしているようだ。
「あ、それがあったわね。ちょっと行ってくるね」
「えぇ、閉館時間まではここにいるわ。時間が過ぎるようなら、荷物は私が持って行くから後で取りに来て」
「ありがとう、ルーチェ」
リセが今、住んでいる家とルーチェリエの家は実は隣同士だった。リセの家はヴァルディア侯爵夫妻が用意してくれたものだが、ルーチェリエの家は祖母が家出用に用意していた家だったらしく、祖母からルーチェリエが直接受け継いだ家なのだそうだ。学校に近いからという理由でそこに引っ越して、初めてリセの家が隣にあることを知ったのだ。
持つべき者は理解ある友人だよね、と思いながらリセは図書室を後にした。
リセが図書室から出て行くと、レオンハルトがちょっとがっかりしたような顔をしたので、ルーチェリエはぷっと吹き出した。
「レオンハルト様、リセがいなくなってとても残念そうですわねぇ」
小さく笑うルーチェリエに、周りの友人たちも同調した。
「そうだぞ、レオン。あからさますぎる」
「俺たちだっているじゃん。リセほどとは言わないが、俺たちにも愛をくれ」
「待て、レオンの愛は重い気がするぞ」
「ゲッ!それはいらんなぁ。そこそこの愛をくれ」
「お前等なぁ」
好き勝手言う友人たちにレオンハルトはイラッとしたが、さすがに図書室であまり騒ぐ気はない。今だって、一応、小声で言っているのだが、図書室にいる者たちの生暖かい目がレオンハルトに注がれていた。
「失礼します、キャンドラ先生」
「ああ、来ましたね、ソール君。呼び出したのは、君の就職についてだ」
担任のキャンドラ先生は、神経質そうな細身の男性だ。だが、これでいて案外面倒見は良いと評判の先生でもある。
「君は少々特殊事情を抱えているからね。国としても君の扱い一つで貴族たちの反発を招く恐れがあるから、慎重になっていたんだ」
国がわざわざ規則を作ってまで守ってきた血族による世襲。守り切れず身も心も傷ついたリセの扱いに関しては、誰もが慎重にならざるを得なかった。
「だが、君の成績は優秀だ。世辞でも何でもなく、本当に君を巡って色々とあったらしいよ」
文官たちは一人でも優秀な人間を自分のところに確保しようと、議論を交わしたらしい。
「その中で最終的に君を勝ち取ったのが、総務局だ。最後まで残った財務局と局長同士で激しくやりあったらしいが、君の持つ能力や雰囲気は総務の方が生かせる、という結論に至った」
もう一つ、総務局に決まった理由は、彼女の夫の存在だ。
レオンハルト・ヴァルディア。彼は第一騎士団への配属が決まっている。
騎士団が常駐している場所からは総務局の方が近いし、財務局よりは外に出歩くことが多い。
ソルトレイ家の血をこのまま絶やすわけにはいかない。
文字通り最後の一人である彼女と夫の仲を少しでも近付けようという、ちょっとした大人たちのお節介が入ったことは否めない。
だが、仕事は仕事なので、そこら辺は成績優秀な者として私情抜きで期待されている。
「総務局は、財務局と違って特定の時期は泊まり込みで仕事をするほど忙しい、ということはないが、どちらかというと常に何かしらで忙しい、という感じになるな。書類関係の間違いが多く、王城内で書類を持って早足で歩いている人間を見たら総務だと思え、と言われるくらいだ」
それはそれでどうかと思う。書類はきちんと提出してもらいたいところだ。
「なので、少々の体力は必要だな。それとどこの誰か顔を覚えること。そういうのは得意だろう?」
「はい。それなら出来ると思います」
人の顔を名前を覚えるのは得意な方だと思う。ルーチェリエからは商売に向いてるので、もし王城が嫌ならうちに来て、と勧誘をいただいている。
「場合によっては、提出した人間を追っていかなければならないらしいから、靴は動きやすい物を選んだ方がいい」
そのアドバイスは、総務局に就職する人間に対するもので合っていますか?というか、書類が多い部署だけあって、間違いに関しては厳しそうだ。
「それと他部署からの出入りが多い。君のことを知っている人間も出入りするが、基本的には何も聞かれないはずだ。もし、聞かれたら局長に報告してくれ。そちらで手を打ってくれるそうだ」
総務局の局長は仕事に厳しいが、部下を守ることにかけてはもっと厳しい。
以前、腕自慢の騎士の一人が度重なる書類のミスを犯していて、その度に総務局の人間が何度も来ることを鬱陶しがり、腕を払いのけて怪我をさせてしまったことがあった。局長はそれに大激怒し、騎士に模擬戦を挑んで負かし、その場で懇切丁寧に書類の書き方を指導したことがあった。
騎士として総務局の人間に負けたこともショックだったが、それ以上に、局長自らによる書類の書き方指導が精神的にものすごい負担になると、やられた本人は後に語っていた。今では、彼から提出される書類にミスは見られないそうだ。
それ以来、総務局の局長は怒らせるな、というのが合い言葉になっている。
「頼りになる局長だよ」
「はい、ありがとうございます」
就職してある程度自立することが出来たら、次にすることはレオンハルトとの離婚だ。
ヴァルディア侯爵夫妻との約束もあるので、もうしばらく時間がかかってしまうが、恩人でもあるレオンハルトのためにもリセは隠し通してそっと離婚する気満々だった。
待っててくださいね、レオンハルト様。貴方の幸せのためにも必ずやり遂げます。
決意と同時に何故か心の奥が痛んだが、それはきっと書類上とはいえ家族となった人と別れなければならない悲しみだと言い聞かせた。
リセは、無意識のうちに己の心に芽生えた大切な想いを封印したのだった。




