夫、事実を知る。
読んでいただいてありがとうございます。長編書いてる最中に思いついて書いている物語なので、更新は遅めですが、のんびり見守って下さい。
「悪い、リセ、これの見方を教えてくれ」
「……はぁ……」
そう言って目の前のイケメンがリセに書類を手渡した。
イケメンこと、第一騎士団の副団長を務めるレオンハルト・ヴァルディアは、リセにとって1ヶ月の内で最も楽しみな日である給料日の、それも終業時間間近に押しかけて来た。
今日は帰りにちょっと良いお酒でも買って帰っておうちで酒盛りを、と思っていたのに面倒くさい。
リセの職場である総務局は様々な書類を管理している。国の公式な書類や貴族から提出された書類など保管して必要に応じて出しているのだが、本日イケメンはそんな書類の中でも自分の戸籍を見たいと言い出した。庶民はともかく貴族はさすがにしっかりとした戸籍記録があるし、自分の物であれば手数料さえ支払えば気軽に見られるので問題はないのだが、戸籍簿は各家で保管されているものもあるので家に帰ってそちらを見ればいいだけの話だ。わざわざ総務局に来て手数料を支払ってまで見るものじゃないだろう。さらにその記録の見方を教えてくれと言う。ってゆーか、それこそ子供じゃないのだから見れば分かる。
「…どうされたのですか?レオンハルト様、しばらくお会いしない内に脳内まで筋肉になられましたか?私と首席争いをしていたそのちょー優秀なはずの頭脳はどこに捨ててきたんですか?」
リセとレオンハルトは同じ学校の出身で首席争いをした仲だ。もっともあちらは次期侯爵で25歳という若さで精鋭揃いの第一騎士団の副団長を務めるほどの技量の持ち主だ。さらにイケメンなので、旦那になって欲しい人No.1の座を長年キープしている強者だ。
対してこちらは地味な上に頭脳しか取り柄のないモブ女子なので、端から見ても同級生という繋がり以外に接点など本来は無いように見えるだろう。ただ、首席を取るために切磋琢磨していた仲なので、妙な連帯感というか信頼感みたいなものが有り、レオンハルトは書類関係のことになるといつもリセに依頼していた。
「ひどいな、どこにも捨ててきてなんかない」
「そうですか?だってこれ、見れば分かりますよね」
「……俺の幻覚だと思いたいんだ」
「現実逃避、バンザイ。いいですか、まず、ここ。レオンハルト様のお名前、ご両親のお名前、弟さんと妹さんのお名前、間違いありませんね?」
「…あぁ…」
レオンハルトの声に覇気が全く無い。まあ、原因は分かっている。この次の項目のことだろう。
「……それから、こちら、レオンハルト様の奥様のお名前です」
「………なぁ、リセ、俺はいつ結婚したんだ?」
「10年ほど前に入籍されています。当時は15歳くらいですが、ご両親の承諾があれば問題はないお年頃ですね」
貴族なのだ。年齢が多少若くても15歳ならば両親、もしくは後見人の許可があれば結婚出来る。レオンハルトの戸籍には10年前に結婚した妻の名前がばっちり載っていた。ついでに出してきた婚姻届にはレオンハルト本人の署名もある。
「レオンハルト様がちゃんと署名されているように見えるのですが、お心当たりは?」
「…何となくある。両親に言われて書いたんだが、本物だと思っていなかった…。母の我が儘で書かされただけだと思っていたんだ」
おぼろげな記憶の中で10年前に母がいかにも訳ありっぽいぼろぼろでガリガリに痩せた少女を屋敷に連れて来た。母がずっと泣いて少女を抱きしめていたのだが、その時に「うちの子になればいい」と言い出してなぜかその場で少女とレオンハルトの婚姻届を書かされたのだ。養女にすればいいのでは?とかそういう疑問を全部吹き飛ばして息子と結婚させるという方法で母は少女を家族に迎え入れたのだ。
ただし、勢いに呑まれて婚姻届を書かされた息子は今の今までそのことを綺麗さっぱり忘れていた。それにあのガリガリに痩せていた少女にはその時以来、会っていない。
「…つまり、レオンハルト様は10年間、一度もご自身に奥様がいることを認識されていなかった、ということですね。まごうことなき『白い結婚』でさらに3年経過していますので、離婚をすることは可能です。書類をご用意いたしましょうか?」
『白い結婚』は、結婚から3年経過すれば双方から離婚が可能になる。もちろん不正防止の為、神官やら何やらの審査は入るのだが、今回のケースは本人が結婚をしている意識もなかったので間違いなく許可は下りる。結婚も紙切れ1枚なら離婚も紙切れ1枚で済む話だ。レオンハルトがその書類を出したらそれで終了になる。奥方が抗議でもしてこない限り問題は無い案件なので、離婚届を出すならそれでいいんじゃないかと思う。
「…いや、まだいい。ちょっと…一度、俺の奥さんに会ってくる」
「会うって言ってもレオンハルト様、奥様の居場所をご存じなんですか?」
家族仲が良いと評判のレオンハルトの家は今でも月に1度は家族で集まって夕飯を共にしているのだと聞いている。そこにさえ現れず、今日初めて存在を知った奥さんをどうやって探すと言うのか。
「それに10年間、一度も会っていない方の姿とか分かるのですか?」
「…確かに」
10年間会っていないどころか、結婚していた事実さえ綺麗さっぱり忘れていた人間がマジでどうやって奥方を探すんだろう…?リセの疑問は尽きない。
「…そうだな、取り敢えず母に聞いてみる。その…彼女…エセルドレーダのことを」
レオンハルトの隣にはしっかりと『エセルドレーダ・ヴァルディア』という名が記されていた。
普段はあまり隙の無い姿しか見せないはずの第一騎士団の副団長は、フラフラと頭を壁にぶつけながら総務局から去っていった。あまり足取りが地に着いていなくて心配になったが、慣れた王宮内の道なので帰巣本能に従って騎士団の詰め所には無意識になっていてもたどり着けるだろう。
問題なのは、レオンハルトがついに妻の存在を知って、名前だけでも情報を得てしまったことだ。
侯爵夫妻との約束通り10年間、隠し通したが妻という名目でいたのでそろそろ離婚の書類を…と思っていたところにまさかのご本人登場に驚きしかなかった。運が良いのか悪いのか、侯爵夫妻との約束の日時は来月、リセの誕生日までだ。あと1ヶ月待っていてくれれば戸籍はちょっとばかり汚れてしまったが、レオンハルトは何も知らないままで自由になれたのに。誰だ!レオンハルトに余計なことを教えた人物は!?
リセの本当の名前はエセルドレーダ・ヴァルディア。
つい先ほどふらふらになりながら出て行った第一騎士団の副団長は、間違いなくリセの旦那様だ。残念ながら「最愛の」という枕詞は付かない関係だが、書類上はレオンハルトとリセは夫婦になっている。
リセの本名はエセルドレーダ、本来なら愛称は「エセル」とかになるのだろうが、まだ幼いリセが自分の名前をうまく言えず、舌っ足らずな言葉で名前を告げた時、よく聞き取れなかったからリセって呼ぶぞ、と言って勝手にリセの愛称を決めたのは幼い頃の旦那様だ。レオンハルトはすっかり忘れているようだが、それ以来、母や母の友人であったヴァルディア侯爵夫人がそう呼んだので、いつの間にかエセルドレーダの愛称はリセになっていったのだ。
何度も言うが、張本人は全く覚えていない。
多少なりとも覚えていたのなら何らかの反応を見せてくれただろうが、実際には学校で再会した時には綺麗さっぱり忘れていた。だからリセの名前にも何の反応も示さなかったのだ。
まぁ、それも当然か、とも思う。
幼い頃、ほんの少しだけ交流があったがそれっきり会ってもいなかったし、実際、侯爵夫人がリセを見つけてくれなければそのまま死んでいてもおかしくない状況に置かれていたのだ。
侯爵夫人は友人の娘が置かれていた状況に大変心を痛められて、思い切って息子の嫁にして自分の庇護下に置いた。それは有難かったのだが、息子の嫁はやりすぎだろう。単なる後見人じゃダメだったんだろうか。いや、まあ、リセの元の後見人がリセにした仕打ちを思えば後見人って言われたら逃げ出した可能性も無きにしも非ずなのだが。
当時、他人なんて一切信じられなくなっていて心が荒みきっていたリセは、取り戻した亡き両親の遺産で学校に通い、成人したら良い就職先を探して一生独身で生きると決めた。助けてくれた侯爵夫妻には悪いと思ったけれど、他人が傍にいるだけで苦痛でしかなかった。
侯爵夫妻はそんなリセの気持ちを汲んでくれて、自身が持つ小さな隠れ家的な別邸にリセと身の回りの世話をしてくれた少し年老いた執事夫妻だけを住まわせてくれていたのだ。なので結婚しているとは言え、ヴァルディア侯爵家の人とは交流が一切無い…わけではなく、むしろレオンハルト以外の家族とは交流があったりする。
侯爵夫妻は気にかけて会いに来てくれていたし、その際、レオンハルトの妹や弟も連れて来てくれて少しずつ人との触れ合いに慣れさせてくれた。おかげで救出されてから1年後、無事に学校に入学できたのだが、入学式でレオンハルトと再会して、そういえばこの人と結婚してたんだっけ、ということを改めて思い出したくらいには家族としてのレオンハルトとの関係は希薄だった。
侯爵夫妻との約束は10年。
10年経ったら、離婚でも何でもしてもいいから、せめてそれくらいは家族でいて欲しい、亡き大切な友人(=リセの母)の娘を守らせて欲しい、侯爵夫人にそう泣きつかれてうっかり頷いてしまったので、真面目なリセはその約束は守ろうと決めたのだ。
侯爵夫人や妹、弟とは10年間家族でいた。のでそろそろ良いお年頃だし、離婚してすっきりしようと思っていたのだ。レオンハルトはヴァルディア家の嫡男なので侯爵夫妻も跡取りの孫が見たいだろうし、このままリセと婚姻関係を続けていたところでその可能性は皆無だし、というか妻ということを知らないんだし、白い結婚でばっちり離婚、と意気込んでいた目論みは本日潰えた気がする。
始めは男性全般が怖かったから会えなかった。特に年上の男性である侯爵には、会う度に過去がフラッシュバックして震えが止まらなかった。
侯爵が根気よくゆっくりとリセに接してくれたおかげで入学する頃には、何とか平常心でいけるようになった。侯爵夫妻がリセの為にリセより年下の子供達から連れてきてくれたおかげで他人との交流もいけるようになった。だが、肝心のレオンハルトと会う機会をとことん逃して、学校で再会した時には単なるクラスメイトになり、良いとこに就職する為に必死になってやった勉強の結果、首席を争うライバルにしかなり得なかった。
これにはさすがの侯爵夫妻もあれ?となったが、常に確認を怠るな、と言ってあるのに自分の戸籍を確認しなかった息子が悪い、と決めつけて放置した。一応、可愛い義娘とそれなりに出来る男に育った息子には、ちゃんと自分たちの意思で惹かれあって欲しい、と思っていたのだが、10年間、単なるクラスメイトの延長でいかれるとは思っていなかったらしい。リセが最近、離婚の2文字を言い始めたので、何だかんだと延長を打診されていたところだった。
「レオンハルト様、お義母様に聞きにいったよねぇ…」
果たして、どこまで伝える気なのか、リセには不安しかなかった。