せめてこの想いが届きますように! 2
朝早く家を出発した二人が、市民病院に到着したのは午前九時前であった。
最初は外科、次は神経内科と流れ作業のような検査を終え、最後に父だけが診察医に呼ばれ報告を受けたのは午後三時をまわった頃だった。そして「おそらく」という副詞付きではあったが、病名と予後が告げられた。
「筋委縮性側索硬化症もしくは進行性筋委縮症と思われます。このまま病状が進行していった場合、三年から五年です。この病気は難病指定されており、現時点では治療薬は残念ながら有りません」
診察医は、カルテを見ながら一気に話し終え、そしてゆっくりと気遣いながら父の方に眼を向けた。
動転したであろう父は、その後いろいろな質問をしたらしいのだが、思い出せないという。
ただ、診察医の紋切り型の対応があまりにも冷酷に映ったのか、いたく憤慨したらしい。
当然のことながら、母にはその事実を告げず帰宅の途についた。
興奮を抑え、スピードを抑えながら車を運転した。
様子を察したのか、母はあまりしつこく質問してこなかった。
母を家に降ろすと、さして重大事ではなかった、そんな表情を繕い、ひたすら平常心を装いながら「ちょっと会社に顔を出して来る」と言って家を後にした。
抑えつづけていたものが弾けるように、父は電話口で話しだした。
涙声になり、言葉が聞き取りにくい。
「えー、何だって? 何?」
何度も聞き返し、つい声が大きくなってしまう。
「何と言う病名だって?」
父は医者に書いて貰ったメモを一字一字読み上げた。
私はデスクに備え付けのメモ用紙にその文字を書き込んだ。
「どうしようか・・・」
初めて聴く言葉に思えた。
「何と伝えたの?」
「少し難しい病気だとだけは言ってある‥」
「そうか、何れにしろ、こっちの方で病気のことを、もっと詳しく調べてみるよ。また連絡するから。いいかい、泣き顔みせるなよ」
その報告は、当然「そうですか」で済ませられる内容ではなく、やはり、上京して再検査することを促した。
じっとメモに書き写した「筋委縮性側索硬化症」と言う見慣れない漢字を見つめていた。
ただならぬ雰囲気を気遣ったのだろう、周りの同僚たちも私を少しの間だけ独りにした。しかし、その病院が県を代表する権威ある病院であることを私は十分理解していた。
ひたすら高ぶる心を落ち着かせた。
深呼吸を何度となく繰返し、声のうわずりを抑え、そして、アドレス帳をひろげた。
義弟は薬品会社の研究開発に所属している。
彼にいきさつを話し、その病気が何者なのかを調べてくれるよう頼んだ。
「検査を受けたのは何処なの」
「鹿児島市民病院」
「・・・・・」
仕事がらいろいろな病院を廻り、ある程度の病院レベルを知っている義弟は、そのことに関して、何も言わなかった。
「明日、資料を探して家に持って行きます」
「よろしく頼む」
明日の帰宅時間を告げ、受話器を置いた。
翌日、夜九時過ぎ、義弟は資料を持って訪ねてきた。
冷蔵庫から缶ビールを出し、労をねぎらった。
「これなんですけどね」
茶色いカバンの中からおもむろに資料をとり出し手渡した。
その資料は、医学書からのコピーのようであり、角張った専門用語がぎっしりと連なり、まるで飾り気の無い手術室のように、非常に端的に内容が記されていた。
病名『筋委縮性側索硬化症』(ALS)
主要症状は感覚障害を伴わない筋委縮と脱力である。一般に意識は清明、精神症状はみられないが、強迫・失笑・号泣などの情動失禁が末期に多くみられる。
発症は一般に緩徐であるが、時に至急性のこともある。
常時進行性で、まれに自然停止を示す場合もある。
予後においては全症例の八十%はほぼ五年以内に死亡するが、まれに長期生存例もある。
その資料に記されている内容と、母の置かれた現実とを容易に結び付けることができなかった。
眼から飛び込んでくる強ばった文字を、いやがる私の頭脳が解読してくれない。
ただ、ひとつだけ明確だったことは、データの中にある『予後』・・いわゆる その病気にかかってからあと何年生きられるかという実例データグラフが、三年後三〇%、五年後二〇%を示していたことである。
義弟は冷静にそして愛情を込めながら説明を始めた。
「ALSは、脳から脊髄、体の各部へと伸びる運動ニューロン(神経細胞)が侵されていく難病なんです。国内の患者は推定四千人ぐらい」
眼からの情報に耳からの情報が加わり、全体の輪郭が浮び上がってくる。
それはまるで嫌いな食べ物をむりやり口に押し込まれ、やむなくゴクンと飲み込んで腹に落とした、そんな感じだった。
飲み干した缶ビールを片手で押し曲げ、冷蔵庫からもう一本取りだした。
心を落ち着かせ、もう一度ゆっくり読み返し、そして不明な部分を質問した。
書いてあったことなので聞くまでもなかったのだが、それでも口に出して尋ねた。
「まったく治療方法はないの?」
ビールを一口含むと、黙ってうなずいた。
静かに時間は過ぎていった。
私たちは病気の話をきっかけに、『結局、人間の生命とは何なのか』ということにまで発展させて語り合った。
「近代医学はすごいスピードで発展してますよ。今問題になっているエイズにしても、きっと十数年のうちに、人間の頭脳は乗り越えてしまうんじゃないのかな。医学というのは体外から入り込んでくるウイルス等による病気に対しては、時間さえかければ、必ず治療法を探し出すんです。だって、五十年前に死因として多かった結核も、いまでは死ぬ事なんかないんですからね。でも、ガンは永久に克服できないんじゃないかって、思ったりもするんですよ。ガン細胞は、既に体内に存在していて、しかも、その細胞自身、その存在する体を壊そうとする。つまり、自分の体が自分の体に『死ね』と命令する。医学はこれを停止させることができるのだろうか。僕はそのことには疑問を感じているんです」
「ALSも要するにガンのような・・・」
「そうですね。結論は出ていないようですけど、ウイルス性ではないようですし、筋ジストロフィーのように遺伝性と言われているものでもない」
『人間は必ず、いつかは死ぬんだ』
そのことを理解させようとしていた。
人間は人間とつき合うとき、そこに必ず『死』という現象がいずれ介在してくることを前提としてつき合っていかねばならないということなのだろう。
義弟は話を続けた。
「もし、死なない薬なるものが発見されたとしたら、おそらく人間は子供を作らなくなるんじゃないのかな。きっと資産を残す努力もしなくなるだろうし、自分の存在を歴史に刻みたいという心的欲望もなくなるのだと思いますよ」
「つまり、人間は、いやおそらく生命体のすべては、自分自身に命の限界があることを知っているからこそ、さまざまな『生』における行動に意味を持たせようとする、という事か・・・」
「そうですね。生き物すべてはそうやって生きているんでしょうね」
先日テレビでみた魚の産卵を思い出していた。
必死で渓流を遡り、産卵を済ますと力尽きて波間に漂いながらその一生を終えようとする、そのシーンを思い出していた。
そんな魚たちの姿は、やるべきことすべてをなし終え、ある意味満足感の中で波間に身を任せている。
そんな風にも見えた。
『生』という存在を認知し享受するなら、まったく同じレベルで『死』という存在も宿命として認知しなければならないということなのだろう。
大学時代、哲学を専攻していた私は、一生懸命というほど勉強していたわけではないのだが、答えを見つけ出せずに考えあぐねていた問題があった。
おおよそ考え悩むことが学問であり、ましてや哲学そのものなのであるから、今思うと懐かしい気持ちもする。
「人間の人生における『始点』と『終点』はどの瞬間にあるんだと思う?」
唐突に質問した。
「え?」
口元まで運びかけた缶ビールをテーブルに戻し、義弟は戸惑ったように首を傾けた。
「どういう意味ですか?」
「ごめんごめん。つまりね、その人の人生の『終点』は、その人の『死』という現象までも含まれるのか。それとも『死』の瞬間の直前にある『生』の最終局面までを指すのか。ということ」
「うーん、難しい問題ですね」
そう言って少し時間をくださいという顔をした。しかし、私はつまらない事を考え始めてしまったような、そんな気分にもなっていた。
語り合う中で、そんな学生時代の、今では頭の中ですっかり風化してしまっていた悩みを思い出していた。
二人は転がった空き缶を片付けた。
結局、私たちは酔うことはできなかった。
「ありがとう」
礼を言った。
「また何かあったら・・・」
伏し目がちに答えた。