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 レティの消えた谷底は、雪がすっかり姿を消していた。固かった蕾はほころび始め、どこか生暖かい土の匂いは、春の訪れを実感させる。


 アレクスは、近くの村で買って来た花を、岩の上にそっと置いた。


 レティがいなくなってから半年近くたった今も、つい、ここへと足が向かう。亡骸が見つかっていないせいもあるが、アレクスは、今でもレティがどこかで生きているような気がしてならない。


 アレクスは、レティに会いたかった。その気持ちは今も変わらない。周りはレティを忘れろと言うが、アレクスの中で、レティの存在は、たぶんこの先ずっと消えることはない。


 子供の頃のお茶目なレティや、大きくなってからの生真面目ながらも、温かみのあるレティ。楽しそうに笑う笑顔や、アレクスへのいたずらが成功した時の満足げな顔、弟たちの母がわりを務めて奮闘している姿など、アレクスの中のレティは、どれも鮮明で美しい。


 いなくなって初めて気付くなんて、双子のいうとおり、自分は本当のバカだった。レティのことをわかっているつもりで、何もわかっていなかった。レティはたくさんのものを与えてくれたが、自分がレティに与えたものなど、何一つない。


 何もできないまま、こうなったことが、大きな後悔となってアレクスを苛んでいた。もし、レティに会えたら、心から詫びて、望むことを何でもしてあげたかった。だけど、それも、今となっては叶わない。


 真っ赤になった鼻先から滴り落ちる鼻水を、アレクスは自分の印が縫われた美しい布で無造作に拭った。いい大人になったのに、びっくりするぐらい涙が出る。誰もいないという思いが、余計に涙を止まらなくしていた。まるで初めて会っときのレティみたいだ。あの時は自分が慰めたけど、今の自分には慰めてくれる人が隣にいない。


 泣いてもどうにもならないのに、涙は一向に止まりそうにない。どうやら、悲しみというのは、何とかしようと思ってできるものではないらしい。それに、人の一生の中で、こんな深い悲しみがあることも、今度のことで初めて知った。自分はもう、この悲しみから抜け出すことはできない気がする。


 アレクスは、馬の首に顔を埋めて小刻みに肩を震わせた。




「アレクス、今日は上の現場へ行くぞ」


 ザクリスは、いつからか、アレクスのことを『アレクス様』ではなく、『アレクス』と呼ぶようになった。ザクリスはまた、よくもそれだけ仕事が見つけられるなと感心するほど、次から次へとアレクスに仕事を持ってくる。


「雨が降る前に工事を完成させるんだ。降り始めると、水がいつ来るかわからんからな」


 設計図を睨んで、ザクリスが図面に何かを描き込んだ。覗き込むと、川と未完成の堤の間に、一本の線が描き足されている。


「これは?何?」


 アレクスが聞くと、ザクリスは、自分の油で半分固まりかけた髪を、ボリボリと掻いた。


「この辺に土嚢で土手を作ってやると、急に水が来ても、工事中の堤が壊れずに、下流に水を流せるんだがな…」


 ザクリスはペンの尻で、図面をビシビシと叩いた。


「ああ、本当だ。これなら、堤も守れて、出来上がってる場所には水が流れる」


「そうなんだよな…」


 ザクリスは、考えるときの癖で、腕を組んで左斜め上を見た。


「そうなんだが…。工事は順調だし、雨が降る前に水路が繋がる予定だからなぁ……」


 ザクリスは真剣な目で図面を睨んでいたが、急に頭を激しくかいた。


「限界だ!アレクス、風呂に行く!」


 ザクリスは、風呂に行く荷物をやおらまとめ始めた。


「俺はいいよ。現場に行ってる」


 アレクスが、興味なさげに断ると、ザクリスは、できの悪い息子を見る母親ような目でアレクスを見た。


「お前も行くんだ。身綺麗にしろ!それと、これからは、そんな格好じゃなく、リュネ家の一員とわかる格好をしろ!」


 兄たちのような仕事ならまだしも、こんな現場で、綺麗な格好をしていては仕事にならないではないか。アレクスははっきりと不満顔を見せた。


「何でだよ?何するにしても、この方が便利だろ?動きやすいし、汚れも気にならない」


 ザクリスは、うんざりして、口角を下げた。それから諭すように真顔になった。


「何も正装をしろと言ってるんじゃない。作業がしやすくて、どこかリュネ家を思わせる、上質なものを着ろと言ってるんだ」


 何枚かかけてあったアレクスの服から、緑色があしらわれた小綺麗なものを選んで袋に詰める。


「何も変われと言ってるんじゃない。持って生まれたものを、生かせと言ってるんだ。お前の兄さんたちの仕事も立派だが、ここで頑張ってるお前も、十分立派だ。リュネの人間が現場で一緒に働くのは、何より皆の励みになっている。なのにお前、そんな格好してたら、本物の庶民にしか見えなくて、ありがたみがない」


 今まで考えたこともないようなことを言われて、アレクスは、目をぱちぱちさせた。


「とにかく、言ったとおりにするんだ。明日から、リュネの五男だとわかる格好で来ないと、追い返すからな!」


 ザクリスは手早くまとめた荷物を、アレクスに向かって放り投げた。

三章に入りました。


三章を書くのは(特に前半)、自分的にはとても大変でした。

読みにくかったらすみませんm(_ _)m


読んでくださった皆様、本日もありがとうございました!

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