谷間
「アレクス様、こっちです」
手を振りながらアレクスの名を呼んだのは、現場監督のザクリスだった。ザクリスは、いつも地図を片手に、反対側の手には何かしらの道具を携えている。
アレクスは、急いでザクリスに駆け寄った。ザクリスが、持っていた地図を現場が見渡せる机の上で広げる。
「いいですか、アレクス様、この現場は、リュネ家始まって以来、…と言っては大げさですが、まぁそのぐらいの大工事です。この川はなかなかの暴れ川でね。大雨が降ると結構な割合で氾濫します。おかげで何度も下流にある街が被害にあっています。ここをなんとかするのが、長年の悲願だったわけですが、今回、イェレ様主導の下、ここに新しい水路をつなぎ、新たに水の逃げ道を作ってやろうというわけです」
地図には、今までの川と、新しく水を逃がす水路が描かれている。
「下流域から掘り進めてきた水路を川とつなぎ、洪水の際に水を逃がす。するとここで水量が調整され、川は氾濫しない。水路と元ある川の両方を使って、洪水を防ぐのです。もちろん、街の方にも貯水池や水を逃がすための低い道路を建設して、万全の体制をとります。しかし、工事の要は、何と言っても、川の水量を調節する新しいこの水路です」
目の前では、イェレの設計による水路と川の工事が進められている。
「建設期間は、順調に行けば、水が増え出す雨季の前までです。貯水池や街道など、街の方の工事は、概ね計画通り進んでいます。今後は下流から建設している水路をつなぐ工事が中心になってきます」
そこまで一気にまくし立てると、ザクリスは何か質問でも?というふうに首を傾けた。
レティを失ってからのアレクスは、家でふさぎ込んでばかりいた。自分の半身が消えてしまったような感覚はずっと消えることがなく、現実とうまく繋がることができなかった。もやのかかったような日々だけが、ただぼんやりと過ぎていた。
全く変わってしまったアレクスを、家族はとても心配した。あれこれ気晴らしを用意してみても、アレクスが元に戻る気配は全然ない。仕方なく、家族は、家でふさぎこんでいるより、何かしていた方が気がまぎれるだろうと、イェレとユルキのいるこの現場へとアレクスを送り込んだ。
北部に来てから、アレクスは、休みも取らずがむしゃらに働いた。現場が好きな気持ちもあったが、いちばんの理由は、何かに没頭していないと、おかしくなってしまいそうだからだ。
ある日、ザクリスが唐突に言った。
「アレクス様、明日は休んでください」
「でも…。休んだって、…やることがない」
アレクスが拒否すると、ザクリスは腰に手を当てて、厳しく言った。
「休まないなら、今後現場へ顔を出すことを禁じます」
ザクリスの目から見ても、アレクスは異常だった。頬はこけ、顔色も悪い。
何かに没頭することが、心を紛らわせることがあるものわかるが、それでも休養は必要だ。今のアレクスは、明らかに働きすぎだった。
休みといっても、部屋にいると、レティのことばかり考える。仕方なくアレクスは、馬に乗って、ふらりと出かけた。あてはないと思っていたが、馬の足は結局、レティがいなくなった谷の方に向かった。どこにいても、レティへの思いから逃れることはできなかった。
途中の村で、レティのために花を探した。冬の終わりだったから、花なんて売っていなかった。夏の草花を乾燥させた花束をなんとか見つけ出し、レティのために一つ買った。
谷に近づくにつれて、雪は深くなっていく。馬が雪を踏む音がサクサクと聞こえ、吐く息がさっきよりも白くなった。
滝のあたりは、一面冷え冷えとした雪景色で、水の流れる音だけが静かに聞こえている。アレクスは、雪の積もった岩の上に、買って来た夏の花束を置いた。
これがレティに届くといい。
もう、レティに会えないことはわかっているのに、アレクスはレティのために、花を置いた。
お読みいただき、ありがとうございました!
明日で2章が終わります。
章だての関係で、明日の更新は2話になります。
明後日から3章に入り、土曜日の2話分で最終回です。
後少しお付き合いいただければ幸いです m(_ _)m




