早馬
馬は、全力で王都へと駆けていた。ここ数日、季節外れの大雨が降り、道はひどくぬかるんでいた。伝令も馬も、もう、どろどろに汚れている。マントだけでなく、髪も、顔も、そして口の中までも、全てが泥だらけだ。それでも馬は、ひと時たりとも休むことなく、走り続ける。
王都の城門の上では、プロガムの伝令旗を見つけた衛兵が、大急ぎで通行人たちを脇へ避けた。馬は、止まることなく、門をくぐり、ただまっすぐにプロガムの屋敷へと駆けていく。
しばらくして、プロガムの門では、このところずっと使われることのなかった銅鑼の音が鳴り響いた。まだ開ききっていない門を、馬はすり抜ける。銅鑼の音を聞きつけた兵たちが、玄関の前に集まってきた。馬は、屋敷の前にいる兵士たちを蹴散らし、乱暴に止まった。
伝令は馬から飛び降りて、脇目もふらずに屋敷の中に入っていこうとする。
「伝令どの、そのお姿で、屋敷に入られるのは…」
兵の一人が声をかけた。伝令は、泥で行水したかのように、頭から足の先まで泥だらけで、誰だかわからないぐらいに汚れていた。泥の水が、重そうなマントからぽたぽたと滴る。いくら急ぎとはいえ、さすがにそのまま屋敷に通すわけにはいかなかった。
「うるさい。そんなことを言っている場合ではない」
声を聞いて、その場が、水を打ったように静まった。ここにいる全員が、この声の主を知っていた。
泥にまみれてすっかり誰かわからなくなっているが、プロガム軍の若手では十指に入ると言われる、アイの近習サクだった。プロガムのものに常に付き従っている近習が、主人を離れて伝令に選ばれるなど、異常なことだ。
全員が、息を飲んだ。
サクは玄関に向かって急ぎながら、マントを脱いだ。サクが投げたマントは、じゃりじゃりという音をたて、傍にいた兵の腕にずしりと落ちた。マントの内側に隠れていたサクの服からも茶色い水が滴り落ちる。
「布をかせ」
サクは言いながら、玄関に続く階段を上がった。隣についていた兵が、急いで布を差し出す。サクはそれをとって、顔と頭を拭った。布を当てた箇所から、ボロボロと泥の塊が落ちる。サクは頭を振って髪に入り込んだ砂を落とすと、どろどろに汚れた布を兵に突きかえし、玄関で待ち受けていた家人に言った。
「ご家族を集めてください」
銅鑼の音はすでに屋敷の中まで響き渡っていた。プロガムのものなら、すでに集まって伝令の到着を待っている。
「…アレクス様を」
サクがアレクスを呼ぶように付け加えたことで、場が一斉に凍りついた。
使用人に呼ばれて、マルトの執務室にやって来た時、そこにはアレクスが今まで一度も体験したことのないような重い空気が漂っていた。マルトは椅子に座り、机に肘をついて、ひたいの前で指を組み合わせ、ただ下を向いている。ユルドは厳しい表情で黙っていた。
アレクスが驚いたのは、変わった風情の男が一人立っていたことだ。服はびしょびしょに濡れ、立っているあたりはすっかり水浸しで、男を前から見ると、髪も顔も泥の色をしていて、全く誰だかわからない。かろうじてわかるのは、頭の後ろの髪の色ぐらいだ。
それが、いつも陰日向にアイに付き従っている近習のサクだということに気づいたのは、アレクスがその声を聞いてからだった。
「再度申し上げます。一昨日、盗賊討伐作戦のため視察を実施。視察終了後、ラド地境で、不審な馬車に遭遇。剣、弓、落石による攻撃を受け、追跡不能となり、負傷者多数、不明者一名。プロガム本家では、アイ様が仕掛け矢により負傷。レティ様が行方不明となっています」
アレクスは耳を疑った。特に最後の一言は、サクの言っている意味が全く理解できなかった。
「もう一度、もう一度言ってくれ」
アレクスはサクに近づいて、揺すりながら言った。
サクは、アレクスの要求に応えて、もう一度同じことを繰り返した。アレクスを前にして、それを告げるサクの声は、平静を保ちながらもどこか苦しそうだ。
アレクスは、ニ度目の報告を聞いても、サクの服を掴んだまま、呆然と突っ立っていた。ユルドが静かに近寄って来て、アレクスの腕をサクの服から剥がし、ソファに座らせる。
「うそだ…。レティがいなくなるなんて…」
ここにいる全員が、同じ思いだった。プロガム本家の、しかも熟練兵のみで構成されていた隊が、多くの負傷者を出し、一人の賊も捕まえられず、さらには行方不明者まで出すなど、あってはならない出来事だった。実際に出来事を目の当たりにしたサクでさえも、未だに信じられない。
「本当に姉上の行方はわからないのか」
ユルドがサクに聞いた。
「はい。ただ、橋の真ん中あたりに血痕が残っておりました」
サクはここで言いにくそうに言葉を切った。
「レティ様が連れ去られたのか、何らかの事情で橋から落ちられたのかは、見たものがおりません。懸命に捜索は続けていますが…」
アレクスが顔を上げた。
「落ちた?レティがラドとの境の谷に落ちただと?」
アレクスは過去にそこを通ったことがあった。もし、あそこで橋から落ちたとすると、谷の深さは相当なものだ。まず無傷ではいられない、いや、命がある方が珍しいとさえ思えた。サクは言いにくそうに答えた。
「レティ様が落ちられたかどうかは、はっきりしません。しかし、最後まで残ったものの話では、敵方には一人の負傷者もいなかったとのことです。従って、橋の上の血は、レティ様の血である可能性が高いと考えております」
アレクスは自分の体がだんだんと冷えていくのを感じた。胸がむかむかして、今にも内臓を吐き出しそうだ。座っていても足元がぐるぐると回る。こんなにも不安な気持ちになったことなど、生まれてから一度もない。
レティは完璧で、優しく、美しく、気高く、存在自体が特別なのだ。いつまでも、アズヴェルト軍の象徴として、いや、国の象徴として、存在し続けなくてはいけない人なのだ。
そのレティが行方不明で、谷底に落ちて命がないかもしれないなど、誰が信じる?きっと何かの間違いだ。




