失踪
「ハンニスめ…。ラドの目と鼻の先で舐めた真似をしてくれたな」
高台から、ノードリアとアズヴェルトの攻防を見ていたサーリは、忌々しそうに呟いた。
「でも、我が地は侵していませんよ」
メリカが呟いた。
「見事でしたね。大将軍ハミル。ハンニス一世の片腕で、ノードリアの興隆を支えた生ける伝説。歳増すごとに、ますます高まるその弓使い。アズヴェルト軍が全員、赤ん坊に見えました」
メリカは、自分の目で、伝説の大将軍ハミルを目の当たりにし、興奮しきりだった。
「まずいぞ。あの娘、連れて行かれてしまう!」
サーリが叫んだ。
「我が地の外で起こったことですから」
メリカが首を横に振って興味なさげに呟いた。
「でも、あいつ、私たちが城に入った時、手加減してくれたよな?あいつの一声がなかったら、こっちはあの時、やられてたかもしれない。よりによってノードリアに連れて行かれるなんて!何とかならないのか!あのハンニス二世はまだ十五なのに、すごい女好きだっていうぞ。いくら何でもかわいそうだ」
「えっ!?ハンニス二世って、あれで十五歳なんですか?十二ぐらいかと思ってました」
「メリカ、お前は…!ルスラ!何とかしろ。うまい具合に矢を射て、あの娘を止めろ!」
二人のやりとりを静かに聞いていたルスラが答える。
「もう橋を渡り始めています。運搬役を射たとしても、下は深い谷ですよ。落ちたら娘の命がありません」
「だから!それを上手くやれって言ってるんだろ」
「いや、無理でしょう。射ることはできますが、落ちるのを防ぐのは、それこそハミル将軍でも無理ですよ。死んでもいいというお許しがあるなら別ですが」
サーリはしばらく考えた。そうしている間に、前の方から一人ずつ橋を渡り終えていく。レティを担いだ男は、後ろに二人を残しながら、橋の真ん中近くまでやってきていた。
「やれ」
メリカとルスラはサーリの方をまっすぐ見た。
「この下は緩い流れで深さもある。私があの娘で、もし今、意識があったら、おそらく飛び降りる。たとえ命を失うことになっても、私なら落ちて活路を開く方に賭ける。私たちはあの娘に借りがある。今、返せ」
「承知しました」
そういうと、ルスラは、すぐさま弓を構え、レティを運んでいる男の背中めがけて一撃を放った。矢は勢いよく伸び、レティを運んでいる男の背中の、まさに狙ったところに突き刺さった。
男は、レティを持っている手を離して片膝をついた。レティが男の肩からずり落ちる。後ろにいた一人が慌てて駆け寄ろうとしたが、もちろん間に合うわけがない。
あっという間に、レティは深い谷の底へと吸い込まれて行った。
「やはり、落ちましたね」
メリカがそれ見たことかという風に言った。
「仕方ないだろ!後は、助かってくれと願うしかない」
「ルスラ、底まで見に行ってやれ。生きていようと死んでいようと、連れ帰ってこい」
「承知しました」
ルスラは素早く、森の奥へと消えて行った。
矢が放たれ、プロガムの娘が谷に落ちてしまった。ハミルはとっさに、矢の放たれた方を見た。そこには、ラド族の若者が三人、こちらを見て立っていた。二人は女、弓を左手に持っているのは、体格のいい男だった。
「殿下、隠れてください。ラドは、ここぐらいまでなら、銀貨一枚分でも、正確に狙って来ます」
「レティ、ああ、レティが…。戦いの女神が谷底に落ちちゃったじゃないか。あいつら、なんて野蛮なやつらなんだ」
ハンニスはレティを奪われて怒っていた。ハミルは次の矢を警戒したが、ラドの男は、二番目の矢を番える気配なく、森の中へと姿を消した。他の二人も攻撃してくる気配はない。しかし、油断はできなかった。なぜラドがラドの地の外に矢を放ってきたのだろうか。ここに来る途中でラドの禁忌に触れてしまったのかもしれない。だとすると、一刻も早くこの地を離れなければならない。
「メリカ、訳せ!」
メリカは頷いた。メリカはサーリの言ったことをハンニスたちに聞こえるよう、よく通る美しい声で告げた。
「ラド族長の娘、サーリが告げる。ハンニスよ、お前は我々の恩人に手をかけた。神の名にかけて、ラドはそれを許さない。ハンニスよ。娘の命運途絶えれば、お前からも何かを奪おう。ラドの矢は、必ずお前を追いかける」
実際にサーリが話した言葉は、もっと教養がなくて汚い言葉であったが、メリカはいつも、それを無視することに決めていた。
ラド族長の娘に、アズベルト軍総帥の娘…。
そんな二人を敵に回すとは、ハンニスの女運の無さは、尋常じゃない。だいたい、自分の制止を聞いていれば、こんな事態にはならなかったのに、それを無視してこんな事態を引き起こしたハンニスが忌々しかった。しかし、ハンニスは、ラドの女を見て目をキラキラさせている。
「どっちだ?どっちが族長の娘なのだ?今話した方か?声は美しいし、肉感的でとてもいいな。でも、俺は、隣にいる、薄い髪の色の女も好みだが」
「…」
頭が痛そうに眉間を押さえて黙っているハミルを気遣って、近衛隊長が代わりに答えた。
「おそらく、話している方が族長の娘の近習、隣にいる薄い髪色の方が族長の娘と思われます」
ハンニスは無邪気に振り返って答えた。
「そうか。野蛮な奴らと思っていたが、実際に見ると、ラドの女も、興味深くていいな」
近衛隊長は、真面目顔で沈黙を貫いた。ハミルに至っては、もう話を聞いていなかった。
「とにかく、今のは、我々を攻撃したというより、過去に何かで恩を受けたプロガムの娘を助けたということでしょう。それでもこんなところに長居は無用です」
どうしても自分の目でアズヴェルトの収穫期を見たいというハンニスのわがままに付き合って、お忍びでアズヴェルトに来てはみたが、よりによってアズヴェルト軍の、しかもプロガム本家に遭遇し、その娘を奪おうとした上に、ラドに矢を放たれた。この方のお守りは全く一筋縄では行かない。ハミルは大きくため息をついて、馬にまたがった。




