ハンニス二世
まさかアズヴェルト軍に遭遇するとは思っていなかったが、落石を無事に通り抜け、ハミルは一息ついていた。左側に深い渓谷を望み、馬車が一台かろうじて通れるだけの隘路を、一行はかなりの速度で駆け抜ける。
残るアズヴェルト軍は四騎。うち三騎は前方を走り、残り一騎は後方を追ってきている。数の優位はすっかり逆転し、今度は前方のアズヴェルト軍三騎をハミルたち一行が追う形になっていた。
荷台に身を潜めていた子供がひょいと顔を上げた。
「終わったのか?」
「まだ数人残っております。お顔をおさげください」
「前に三人、後ろに一人か。貸せ、後ろのを射殺す」
そう言って、子供はハミルから矢を取ろうとした。
「なりません。目的は、無事に帰還することであって、戦うことではありません」
「固いことを言うな。戦など、もう何年も起こっていないのだ。今やらないと、一生巡り会わんかもしれん」
「なりません。相手はアズヴェルト軍の本隊です。射落とした相手のいかんによっては、戦になります。今の我が国には、勝つ体力などありませんぞ」
ハミルは、子供を厳しい目で見た。今年も、故国ノードリアは不作だった。ノードリアはここ数年、凶作に見舞われ続けていた。
「お、前に、いい女がいるな。まるでアズヴェルト伝説の戦いの女神じゃないか。よし!国に連れて帰る」
ハミルは、苦虫を噛み潰したような顔をした。
「そんなわけにはいきません。出会った相手の中にあれがいたことが、最大の問題です。おそらくあれは、アズヴェルト軍総裁の娘、レティ・プロガムです」
「プロガム…。プロガムっていうと、アズヴェルトの四公だな。アズヴェルト建国王の兄弟の。外見だけでなく、血筋もいいのか。ますますいい。俺のためにいるような女だ。連れて帰って、俺のものにする。あの女に仕込み矢を放て。傷は残すなよ」
「なりません」
「ではあの女をどうするのだ?後の三人は?」
「もう少し行くと、少しひらけたところに出ます。ほとんどラドの土地の入口ですが。そこに対岸から、人が歩いて渡れる橋があります。おそらくこの状況ではアズヴェルト軍が深追いするのは無理でしょうから、我々は馬車を放棄して、橋を渡ります。橋の向うには、馬を用意してありますので、それに乗り、都を目指します」
「さすがはハミル。追っ手がかかった場合に備えて、石だけでなく、馬まで準備してあるとは抜かりがない。なぁ、…その計画に、あの女も入れてくれ」
「なりません。絶対になりませんぞ」
話していると、少しひらけた広場のようなところに出た。目の前にラドの地が見える。対岸との距離は、それほど遠くない。橋は縄と板を渡しただけで、本当に人一人しか通れない。
馬車は勢いを緩めた。アズヴェルト軍の四人は、自分たちの劣勢を悟って、近づくのを諦めた様子だ。女が、三人に何か指示している。
荷台から降りながら、ハミルが言った。
「四人のうち、二人は女の近習か何かでしょう。女の動きにぴったりと従ってきた。後の一人は、あのマントの色からすると、プロガム本家に繋がるものでしょうな。こんな小競り合いで、プロガム本家の人間を二人も失うわけはいきませんから、奴らは我々を見逃すしかないでしょう。さ、殿下、お早く」
ハミルは荷台から子供を下ろそうと、手を伸ばした。しかし、その時、子供が放った矢が、まっすぐに女に向かって飛んでいった。
矢が放たれた時、そこにいた全員が大人相手に神経をとがらせていた。子供が矢を放つなど、放った側のハミルたちも、放たれた側のレティたちも全く予想していなかった。しかし、子供の放った矢は、力強くレティの左肩に突き刺さった。矢を受けたレティは、尋常じゃないしびれを感じて、すぐさま馬から落ちた。レティはすぐに動かなくなった。子供が用いた仕掛け矢には、ノードリアの希少な薬が塗ってあった。
アイが、怒り狂った目で、子供に突進してきた。
ハミルはとっさに、子供の手にしていた弓を奪い、三本の矢をつがえて、一本をアイに放った。至近距離から放たれたハミルの矢は、力強くアイに突き刺さり、アイは吹き飛ぶように馬から落ちた。ハミルは間髪入れず、二本の矢を、女を守ろうと馬から降りた二人の兵士に放った。ハミルは続けざまに驚くほどの速さで三本の矢を放ったが、そのどれもが正確無比に同じところを射抜いていた。
「女を連れてこい」
子供がよく通る声で命じた。
「ならぬ!」
ハミルがそれを制した。
「女を捉え連れ帰れ。何をぼやっとしている」
「なりませぬ!」
ハミルは同じことを繰り返したが、子供は急に威厳のある声で叫んだ。
「余の命である。女を連れてこい」
その言葉を最後に、体格の良い男が、下馬してレティを担ぎ上げた。
ハミルは目をつぶって大きくため息をついた。
「それが、この先、国を担う者の行いですか?後先考えず欲しいものを手に入れるなど」
「この女を誰がさらったのかなど、わかるものか。この女は盗賊にさらわれたんだ。だけど、盗賊から俺たちが助け出したとしたら、ちょっとした交渉には使えるかもしれんな…。交渉に使えなくても、これだけの美女だ。俺がそばに置くべきだろう?」
そう言って、ハンニスは屈託無く笑った。
その笑い方はハミルが仕えたハンニス一世にそっくりだ。
「殿下、そろそろご出発を」
御者を務めていた近衛隊長にそう促されて、殿下、すなわち偉大なるハンニス一世の孫ハンニス二世と、偉大なるハンニス一世の大将軍ハミル一行は、橋を渡り始めた。
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