出陣
もうすぐ、秋が来ようとしていた。アズヴェルトでは、豊かな実りに感謝して、各地で祝いや催しが行われていた。それはまた、どこからともなく現れる盗賊の季節の到来でもあった。
アレクスとの婚約が決まった時、レティは正直うれしかった。レティにとってアレクスは、小さな時からとても仲が良く、唯一気の許せる相手だった。
四公家という責任ある家の生まれであれば、自分の意思とは関係なく、決められた相手と結婚するのは、当然の義務だとレティは考えていた。それゆえ、レティは、ナシルとの婚約を、当たり前のこととして受け入れていた。
しかし、あの日のことで、婚約者がアレクスに変わった。アレクスも、この婚約を、もちろん義務として受け入れるだろうと思っていた。
同居開始直後、二人の間に何もないのは、アレクスが急な決定に戸惑っているからだと思っていた。レティはアレクスの気持ちが落ち着くのを待った。しかし日が経って、二人の間が子供の頃のように親密に戻っても、何も変化は訪れなかった。
あまりにも進展がないので、レティは、アレクスがナシルに遠慮しているのではないかと考えた。世間で噂されていたのとは反対に、レティとナシルの間には特別な感情などなかった。ナシルも、破談になったことについて気にしているそぶりもなく、先日会った時には、東の国に行くことを興奮気味に話していた。それを見て、自分と婚約しなくて済んだのは、むしろナシルにとって幸運だったとさえ思った。
三人の弟を持ち、かつ軍務についているレティは、男がどういう生き物か、少しは分かっているつもりでいる。年頃の男の隣に、婚約に同意している女が寝ていて、数ヶ月も何もないなど、果たしてあり得るのだろうか?それに、時々アレクスが、早朝に、ひどくあわてて飛び起きるのも知っている。ミルカからさりげなく衣類の洗濯のことを言われたのも、一度や二度ではない。
関係に進展がないにもかかわらず、二人の仲はとても良かった。揃って公の場に出れば、アレクスはレティを完璧にエスコートし、結婚したての夫婦さながらに振る舞う。事情を知らない人間は、二人の仲の良さをみて、婚約が以前からのものだと本気で信じ込んでいた。そういう意味では、ラムカの計画は大成功と言えた。
だが、現実は違った。体が触れるような位置で眠ろうとも、ベッドの中で抱きしめてキスをしようとも、アレクスはなんだかんだと理由をつけてはレティを遠ざけた。レティは戸惑い、心が痛んだ。四公家同士の婚姻という義務をもってしても、アレクスに受け入れられることはないのかと思うと、レティの胸は、押し潰されそうだった。
イェレとの約束もある。日増しに、レティの焦りは大きくなっていた。
国境への出発を一週間後に控えた日、レティは、鏡の前で、いつもより念入りに髪を梳かしていた。襟周りの大きく開いた薄い寝間着からのぞく湯上がりの肌は、とても滑らかで、自分でもなかなかの美しさだと思う。国境へ行くまであと一週。レティは、今日こそアレクスとの関係を先に進めようと、身支度を整えていた。
レティがベッドに入った時、アレクスはのんびりと本を読んでいた。アレクスは兄たちほどの切れ者ではないが、やはり農業や建築に興味があるらしく、寝る前はいつも、そういう本を読んでいる。
「もう寝る?」
アレクスは、本を脇に置き、自分の側の明かりを消した。
「レティ、そっちも消して」
アレクスは言ったが、レティはかまわずベッドに入って、どんどんとアレクスの方へ進んで行った。そして、ベッドに座っているアレクスに跨って、アレクスをじっと見た。アレクスは明らかにたじろいでいる。
「どうしたの?」
アレクスが言い終わらないうちに、レティはアレクスの口を塞いだ。それは、今まで二人が一度もしたことのない、長く、激しいキスだった。アレクスは慌てて逃げようとしたが、レティは両手でアレクスの頬をしっかりと抑えつけた。
最初は暴れていたアレクスが、だんだん静かになった。抵抗が収まり、レティの舌の動きを受け入れ始める。舌は、お互いを探り、確かめ合うように動き始めた。二人の息が荒くなって、アレクスの手がついに、レティの背に触れた。しばらくしてその手は、レティの肩をつかんだかと思うと、仰向けにレティを押し倒した。アレクスの顔は上気して、その顔は見たこともないぐらいに余裕がない。
「レティ」
アレクスはレティの名を呼んだ。薄い寝間着の胸元は乱れ、美しい胸が今にも見えそうだ。アレクスはレティの胸に手を伸ばした。
しかし、その手は、すんでのところで胸を通り過ぎて、その先にある肩を掴んだ。そして、アレクスはもう一方の肩の上に、突っ伏すように倒れた。
「ダメだ」
「…」
「ダメだよ、レティ」
アレクスは絞り出すようにいった。
「どうして?」
レティの声は震えている。
「私たち、婚約したのよね?」
「…そうだけど」
アレクスが小さなかすれ声で答える。
「とにかく、流されちゃダメだ」
流される?レティはアレクスの言ってることが、わからない。
アレクスはレティから離れて、ベッドの上に座った。
レティも起き上がって、アレクスの肩に触れようとした。その時、アレクスがレティの手を制した。
「もう、こんなことはしないで」
レティは弾かれたように、手を引っこめた。アレクスの拒絶は、鋭い刃になって、レティの胸を切り裂いた。気持ちが人に見えるなら、胸はズタズタになって、激しく血を流しているはずだ。レティは込み上げてくる感情に流されて、涙が出そうな錯覚を覚えた。しかし、涙は出ない。プロガムの次期当主として育てられたレティには、小さな頃から、どんな絶望的な状況でも、気持ちを表に出すことなど許されていなかった。感情を抑えるのは、レティにとっては、息をするのと同じぐらい自然なことなのだ。
この瞬間、レティの中で、何かが終わりを告げた。子供の頃から、アレクスに対してのみ開けてきた扉を、ついに閉めるときが来たのだ。
「わかったわ。ごめんなさい」
レティは素直に謝って、そして、微笑んだ。
アレクスは、このレティの微笑みをどこかで見たことがあった。でも、いつ見たのか、今ではすっかり忘れてしまっている。それに今は思い出す余裕もない。ただ、レティが何か慰めを必要としているような気はした。アレクスは、レティの頬に手を伸ばした。困ったように自分を見つめるアレクスに、レティはもう一度先ほどの微笑みを向けた。
「大丈夫よ、本当に。もうしないから、安心して。」
レティが笑って見せると、アレクスの瞳に、微かな安堵が光った。レティはまた、深く心臓をえぐられたような気がしたが、それを感じる前に消し去った。
「明かりを消すわ」
レティは言って、自分の近くにある明かりを消した。
その日から、レティがアレクスにひっついて眠ることはなかった。
一週間後、レティは久々に軍服に身を包んでいた。
婚約してからというもの、大抵の時間を女物の服を着て過ごしていたから、本来の自分の姿に戻った感さえあって、どこか清々しい。
北部では、叔父の一族が常駐していて、国境の警備に当たっている。レティたちは、雪が降って国境が閉ざされるまで、そこで任務に就く。
レティは、居残り組のユルド、マルトと抱擁を交わし、最後にアレクスの前に立った。レティはアレクスの頬に軽くキスをした。
「アレク、わたしのいない間、リュネに戻っていてね」
「君が帰ってくるまで、ここにいるよ」
レティがいない限り、ここにいても用事はないはずなのに、アレクスはそう答えた。
「いいのよ。私のことは気にせず、リュネに戻ってね」
そう言って、レティは美しく笑い、馬にまたがった。
アレクスはレティに無事に帰ってくるよう言いたかったが、毎年恒例の国境警備で、特に何かあるとも思えず言葉を飲み込んだ。
軍装に身を包み、プロガム本家だけに許される深い赤のマントを羽織ったレティは、凛として、この世のものと思えないほど美しかった。この戦いの女神の肩には、この世に生を受けてからずっと、アズヴェルト軍次期総帥としての重荷がかかっている。この荷が降りるようなことがあったら、レティはどうするんだろう?何となくそう考えて、見送るアレクスは、心細さを覚えた。




