一話 「蕾」
大和国 山辺の小高い丘に、一本の大きな梅の木があった。年が明け早ひと月と少し。梅の花はまだ硬い蕾の中に大切にしまわれている。その梅の木のそばにとある父娘が梅の守護の為移り住んできた。父の名は亜人良。彼は、この梅の木の主である大豪族・物部一族に仕える武人である。その剛健さが一族の長である物部 尾輿に認められ、その証として、物部一族の屋敷から一番近いこの梅の木の守護を仰せつかったのである。そして、亜人良の娘・宇女は、母親譲りの美貌と父親譲りの人の良さで、既に父の部下や山辺の民達にも評判であった。
「宇女、このあと殿のお屋敷に参る」
「留守はおまかせを。今日はいつ頃お戻りになるの?」
「分からん。もし日が暮れても私が帰らないようならその時は宴に呼ばれているだろうから、叔父さんのお家に世話になりなさい」
「もう。私は一人で大丈夫よ」
「年頃の愛娘を夜一人で寝かす親がいるか。お前は母さん譲りの美しさじゃ。何処ぞの賊に寝床を襲われたらどうする」
「そんな輩は私のそばへ寄らないわ。何てったって私は父さんの娘だもの。それに私を襲えば、父さんや殿の耳に入るでしょ?」
宇女は、にっこりと亜人良に微笑んだ。肝が据わっているのは両親から譲り受けたもので、彼女が何より自慢出来る性であった。
「だが、義叔母さんがそろそろ臨月だろう?他にも子ども達が多い家だ。面倒を見てやっておくれ」
「分かりましたよ。叔父さん家の坊ちゃん達遊び盛りだから、義叔母さんと赤ん坊に障るといけないもの」
宇女の言葉を聞くと、亜人良は安心したかのように家を出た。宇女はそれを見送り、丘の上の梅の木に目線を向けた。
(私の名前と同じ『うめ』の木...。どんな花が咲くのかな...)
宇女は強く吹いた風に髪が靡かれる中、梅の木の前に佇む人影を見た。しかし、次の瞬間にはその人影は見えなくなっていた。
ーーーーーーーー
「嫌じゃ〜!兄上の所に行くのじゃ〜!」
物部一族の屋敷では、幼い少女の叫ぶ声が木霊していた。
「布都姫様、そのような大きな声を出してはなりません。女子としての礼儀がなって...」
侍女の青埜がそう言うと、十歳ほどの姫はむすっとした顔で青埜を睨んだ。
「うるさい!今日は兄上の武術指南の者が屋敷へ来るのであろう?その者が本当に兄上に相応しい者かどうか童が見極めるのじゃ!」
「そのような...まるで若様の奥方を決められるような仰り方はお辞め下さい...。それに、若様の指南役をお決めになられたのは、殿ではございませぬか...。姫様は殿のご決断を疑われるのですか?」
「そのような事は思っておらぬ...。ただここで一人で遊ぶのにはもう飽きた。目新しい者が来ると言うのにどうしてじっとしていられようか!」
布都姫は遂に涙目になってしまった。青埜がどうしたものかと悩んでいると、
「相変わらず、お前は侍女を困らすのが得意のようだな、布都」
布都姫の兄・物部守屋が現れた。
「これは若様。奥に何用でございましょうか」
「これから指南役が屋敷に参る。その前にその口煩い我が妹に忠告をしようと思っただけだ。良いか、布都。武術とは心の術。お前のように騒がしい者の兄だと指南役に舐められては、この兄や父上が恥をかくのだ」
冷たい言葉が幼い布都姫に降りかかる。それに耐えきれなくなったのか、布都姫は「うっ...うっ...」と嗚咽をこぼした。
「若様、どうか姫様にそのように仰られないで下さいませ...」
「お前もお前だ。姫の世話を何年見ている?何年経てば表にまで響き渡る馬鹿げた声を鎮められるのだと聞いておるのだ!」
「も、申し訳ございません...っ」
守屋の怒号は青埜にも向けられ、それを見た布都姫が青埜の前に立ち塞がった。
「兄上、どうか青埜をお責めにならないで!私ちゃんと兄上の仰る通り静かに致します!ですから、どうか青埜を怒らないで...」
布都姫は深々と床に頭を付けた。次に布都姫が顔を上げると、そこにはもう守屋はいなかった。布都姫は涙を拭いながら、表の方を見つめた。
(兄上は怖いひと...きっとお心が氷のように冷たいんだわ...)
布都姫はぶるっと身震いした。
ーーーーーーーー
「よう来た、亜人良。どうだ、新しい家は住みやすいか?」
「はい、勿体なきお恵みを頂きましたこと、改めまして感謝申し上げます」
「それもこれも、我が倅の為ぞ。指南役として厳しく倅を躾よ。遠慮はいらぬ。そなたの武人としての志は儂が一番よく知っておる。頼りにしておるぞ」
「殿のご期待に応えられるよう、全力を尽くす次第にございます」
亜人良は深々と頭を下げた。上座に座る尾輿の表情は、厳格な人柄を表していて、その顔立ちは息子の守屋に脈々と受け継がれていた。
「倅の相手が済み次第、ここへ戻ってまいれ。話がある」
「承知致しました。これにて失礼致します」
そう言い、亜人良は尾輿の前から立ち去った。
ーーーーーーーー
亜人良が武道場に到着すると、既に守屋が木刀で素振りをしていた。守屋の振りを見た亜人良はそっと近づき、そして目の前に来た木刀を素手で掴んだ。
「それでは刀を振った後に大きな隙が生じ、相手の思う壺にございます、若様」
「...。そなたが私の武術の指南役の者か?」
「申し遅れました。私は若様の武術指南役を仰せつかりました、亜人良と申します」
「亜人良...さては父上から梅の木の守護を任された者か?」
「左様にございます」
亜人良は木刀から手を離し、守屋もまた木刀を降ろした。
「そうか。あの梅の木は先祖代々物部の家とこの山辺の民達を見守って来た大切な木だと聞いておる。そちらの務めもきちんと守られよ」
「若様。無礼を承知で申し上げますが、宜しいでしょうか」
「なんだ、申してみよ」
亜人良は守屋の瞳をじっと見て、告げた。
「若様は大変真面目なお方と見えます。先ほど失礼ながら若様が妹姫様にお怒りになられている声を聞いてしまいました」
守屋の顔が曇る。
「兄が妹に情けなく怒鳴ったとでも言うのか?」
「そうではございません。若様は常に幾重にも精神を研ぎ澄ましておいでです。それは、武術においても大切な事にございます。しかし、研ぎ過ぎた刀は、操るのが難しいもの。力任せに研ぐのではなく、時や必要に応じて研ぐ力を工夫されてはいかがでしょうか」
緩やかな風が、亜人良と守屋の髪をそっと靡かせる。
「なるほど...そなたは武術だけではなく人徳も説く学者であるのか。その言葉、しかと胸に刻む事にする」
「有り難き幸せにございます」
守屋の口元に僅かな皺が増えた。
ーーーーーーーー
指南を終え、亜人良は尾輿のいる部屋へと戻った。
「如何であった」
「若様は、大変聡きお方にございます。智と武を兼ね合わせ、きっと良き武人となりましょう」
「そなたが言うのであれば、そうなのであろう。あれは、少しばかり狭きを求める所がある。それが良き事か悪しき事かは誰にも分からぬ」
その言葉に亜人良は何も答えなかった。
「亜人良よ、そなたの娘は今幾つになる」
「十二にございます」
「ならば、そなたに頼みたき事がある。実は我が倅の妃の事だ。嘗てから、腹心の中臣氏の娘をと思っておるのだが、そなたの娘をその侍女に付けてはどうかと思うておる。中臣氏は政に関しては誠に良き一族ではあるが、姓の事もあってか、戦には好意的ではない。しかし、周りの豪族達が着々と勢力を延ばしている今、こちらを疎かにする訳にもいかぬ」
宇女を守屋の妾にして武力を高めたい。それが尾輿の思いであった。
「どうだ?受けてくれるか?」
正直な所、宇女をそのような扱いで嫁がせたくはなかったが、断れぬ頼みである事は認めざるを得ず、亜人良はその頼みを承諾した。