話の骨と肉、めぐるもの 1
構成力とか、「面白い話」とは、とか。
ちょっとバラバラ。
これを書き始めてから、あらためて自作の足りない部分が見えて、ちょこちょこ直したりしてます(直近では『書林ラビリンス』いただていた感想を読み、伝わりづらかった部分をマイナーチェンジ)。
それはさておき。
去年は自作が参加したコンテストの掌編部門をすべて読みました。中編・長編まではなかな手が回らず、まだ積読状態のものが。すみません、関係者各位の皆さま。
掌編部門の規定は「2000~9999字」でした。
私の『フルサトRadio』は5000字クラスでしたから、規定の半分くらいの分量でしたね。原稿用紙に換算すると12枚ていど、ほんと短い。
かつて「コバルト」のSSの規定は原稿用紙10枚以内でしたが今はどうなんだろう。
「たった十枚で何が書けるってんだよう」と二十代の私は思っていましたが、今書いてみると10枚でも随分と書けるものだと思います。
さて、その掌編部門をすべて読んで思ったことは、なんというか「帯に短し襷に長し」。
説明が足りなくて、伝わりづらかったり物足りなかったり、逆に長編のダイジェストというか単なる粗筋となっていたり。
「読者」としての立場ではしょうじき満足できるものは十作前後という感じでした(すみません)。
素晴らしいアイデアも、流ちょうな文章も、どこか生かされないまま、あるいは噛みあわないままで終わってしまっている。アイデアは多彩で、シチュエーションも魅力的なものがたくさんありました。けれど、作品としての完成度は……。
読んでいて、食い足りなさやもどかしさを感じていました。
どうすれば、「読者」に伝わり、作者が「面白い」と思った部分を共有・共感できるのでしょうか。
わたしだって、分からなです。いつも書いていて「これって面白いのか」と自問自答をしてばかりです。
自分がお話を思いついたときのドキドキ感、昂揚感をどうしたらそのまま伝えられるのか。
「面白いでしょう!」と胸をはって差し出せるものにするためには何をどうすればよいのか。
考えれば考えるほど、訳がわからなくなります。
ただ、自分が「面白い」と思ったその細い糸を切れないように切れないようにと、手繰り寄せて巻き取ることしか。
そのためには、どう見せたらいいのか。
私はMMDが好きで見るのですが、とくに数曲お気に入りの曲が見つかるとMMDを何パターンも見るということをします。
同じ楽曲・振付をどう使うのか。
アングルや切り替え、見比べるとそれぞれの演出の違いを楽しめます。
すべてを見せることがサービスではなく、シルエットにしたり光源を変化させたり、背景を全く変えたりして惹きつける……。千差万別の工夫が見られて面白いのです。
小説もそうなのでは。どの方向から読ませるか。わざとミスリードさせたり、情報を伏せておいてミスアリアスにしたり。
手法を組み合わせることで、何気ない出来事も読ませる物語となるのでは。
読書以外にも、映画や観劇、音楽を聞くこと、スポーツ観戦。
参考になるものは、たくさんあるのだと思います。
それこそ、ふだんのお喋りでも。「どう話したら、くすって笑ってもらえるかな」って考えたりしますよ。
あるいは「どう言い訳しようか」とか。
まとめる力、構成力は日々鍛えられるものかもしれませんね。
あなどれません。
わたしは「物語を書き続けられるひと」になりたいです。
それだけです。
むずかしいか……。
「無料で読ませたんだから、評価していって」と作者が言うのは「貴重な時間使って素人の小説よんでやったんだから感謝しろ」と読者が言うのとおんなじだと思うので、言わぬが花。
悔しかったら、振り向かせて「面白かった」と言わせるようなものをかくしかない