本当に蒸し暑い日
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夏バテしてしまっている。何せ蒸し暑い日が連日続くからだ。俺も街の外れにあるボロアパートの一室にいて、パソコンで小説の原稿を書きながら、時折体を休めていた。
作家というのが大変な商売であるのは案外知られてない。ただ、売れればそれなりに金が入ってくるというだけで、基本的に印税で生活するのは困難に等しかった。だから複数の出版社やエージェントと契約し、原稿を書く見返りとして原稿料をもらう。
最近、特に変化はない。単に仕事量が増えただけで、生活スタイルは変わらないのである。担当編集者が若い美人女性に代わったとしても、そういった人間たちとは電話で話しをし、メールで原稿等をやり取りするだけで、会うことはない。
四十代に入ってふっと思ったのは、出版社サイドがどんな人間を使い、原稿を書かせようとしたところで、基本的に関係ないということだ。別に美人編集者が声色を使ってこようが、所詮書くジャンルの一つであるエロスの中のネタぐらいにしかならないのだし、どうでもよかった。
この世界に入って二十年近くになる。都内の私立大学の芸術学部を中退してこの街に来てから、各種新人賞に公募し始めた。幸い、大学時代していた家庭教師のバイトで貯金があったので食い繋げたのである。そこのところは大丈夫だった。
二十年前といえば、一九九〇年代前半である。当時ワープロを使っていた。ずっとキーを叩きながら原稿を作っていたのである。俺にとって小説は書くという感じじゃなくて、単に作るということになっていた。別にそれでも構わない。データを作るだけである。芸術作品などというが、所詮はそんなものだ。
粘り強く公募を続けた結果、運よく純文学の新人賞に引っ掛かった。獲れた時は嬉しかったが、それから先、相当忙しくなったのである。担当編集者が付き、次々と原稿を書かせた。複数の文芸雑誌などに連載を持ち、原稿が出来てないと督促が来る。その状態がずっと続いた。
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「古島さん、来月号のうちの社の雑誌の連載原稿、出来てますか?」
――ええ、もうすぐ仕上がります。メールにてご入稿いたしますので、お待ちを。
「ちゃんと書いてくださいね。お金をお支払いしているのですから」
――分かってます。
都内にある<元文社>の担当編集者の笹本がたびたび電話してくる。締め切り前だと、ノイローゼになってしまうのだ。必死になってパソコンに齧り付く。先行して送っている分もあるのだが、とにかく俺のような物書きでも原稿は欲しいらしい。
笹本は女性編集者で、確か四十代半ばだ。会ったことは一度もないのだが、俺に付いている。別に気にしてなかった。編集者などしょっちゅう変わるのだし、名刺ぐらいもらったとしても、それまでのことだった。
一度用事があり、上京した時、街の食事処で飲まないかと誘われたのだが、キャンセルした。代わりに牛丼屋で牛丼を食べ、済ませたのである。東京の街など、ほとんど興味がなかった。用件が済めばすぐに新幹線に乗り、地元へと帰る。元々人付き合いが苦手なのだ。これまで新人賞を含めて文学賞を受賞した時も、会見らしい会見などはほとんどまともにしたことがなかった。それに執筆ジャンルも純文学・大衆文学双方に広げていったのである。
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原稿量産マシーンなのである。特にここ数年ずっとそうだ。ケータイ小説が出始めた時は、そっちの方のエージェントとも契約した。ケータイ小説はアクセス数が滅茶苦茶多い。驚いていた。読者数が天文学的数字なのである。
あまり売れない作家だったが、別によかった。こんなに蒸し暑いと、外に出ずに家にこもる日が多くなる。まだ八月上旬だったが、暑さは九月の半ばぐらいまで続くかもしれない。熱中症などにならないよう、注意していた。
俺の本名は古島淳二である。普通にどこにでもある名前だったが、本名をペンネームに使っていた。姓名判断などで洒落た名前などを付ければよかったのだが、気にしてない。返って常用漢字で付けた名前の方がいいとすら思えたのである。面倒だから本名で活動する――、それだけのことだ。
なぜ引っ越しをしないのか……?簡単だ。このボロアパートにいた方が生活感があり、いいのである。生活感があれば、いい作品が書けると思っていた。贅沢している作家もいるかもしれないのだが、そんな人がまともなものを書けるとはおよそ感じられない。確かに直木賞作家などでも怖いぐらい本が売れていたり、その本を元手にドラマや映画などが作られたりして、ロイヤリティーなどがジャンジャン入ってくる人間もいる。
俺もまかり間違っても売れている方じゃない。それに別に売れなくてもいいと思っていた。新聞や週刊誌、文芸雑誌などに連載を持っていれば、そっちの方で十分金が入ってくるのだ。それにいくら純文学の畑から出発していても、芥川賞の候補になったのは過去二回でいずれも落選した。
つい最近も過去に数回に亘って候補になり、やっと獲った作家が会見場で「もらっといてやる」などと発言して、話題をかっさらったことがあった。まだ記憶に新しい。あの作家は今頃どうしてるのか……?あれから作品らしい作品を書けているのか……?よく分からない。だがインパクトという意味では波及効果が大きく、よくあんなことを口にして、文壇に居残れてるなと思える。そこまで甘くないのが、この世界なのだから……。
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つい半年前だったから、今年の二月だったか……?用事があり東京に行った時も、新幹線の中でノートパソコンを使い、作業しながら着くのを待った。ずっとその繰り返しである。いくら名が売れたとしても、企画出版で本を出す際、相当な労苦があった。特に俺のように貧乏が板に付いている書き手なら……。
用件は出版社訪問だった。各社を回り、関係者に挨拶しておく。会ってから名刺などももらい、情報交換した。二泊三日で五社ほど回り、その後、とんぼ返りしたのだ。対人関係が苦手だったから、当たり障りのないことを言って、適当な感じで済ませる。
「お疲れでしょう?」
宿泊先のホテルに帰り着くと、ホテルマンが俺の横顔を見て察したようで、そう言ってきた。
「ええ」
「ごゆっくりお休みください。部屋は清掃して、備品も整えておりますので」
「ああ、ありがとう」
一言言い、ホテルの部屋へと入る。そして軽くシャワーを浴び、風呂上りに冷蔵庫から缶ビールを取り出して飲む。さすがに疲れていた。二月の東京は冷える。
今、地元のアパートにいて八月なのだが、とにかく蒸し暑い。ただ、部屋にはBGMにクラシック音楽を掛け、エアコンと扇風機を併用し、快適にする。さすがにバカじゃないから、ちゃんとやっていた。何せ、また笹本たち編集者が発破を掛けてきそうだからだ。
一日が終わると、作っていたデータを保存し、マシーンをシャットダウンする。そしてゆっくりしていた。夕食時に飲む缶ビールはやっぱり美味い。最近アルコールフリーにしていたのだが……。
就眠前、市販されている睡眠導入剤を規定量服用し、ベッドに寝転がる。不眠症は高じていた。だが、今は便利なものがドラッグストアなどでも売ってある。不眠症治療のため、精神科などに通院せずとも済むのだ。
そしてまた午前六時には起き出す。いつも早起きし、軽めの食事を取ってから原稿を書く。今のように夏の真っ盛りでも常に実践していた。それに自分には小説を書くことしか能がないと思っている。別にいいのだった。いくら純文学から始まり、栄誉ある賞までちょうだいできなかったとしても……。
その日は暑かった。本当に蒸し暑さが身に染みる。そう思い、パソコンに向かい続けていた。時間の大切さを感じている。四十代というのは、まさにそういった年代なのだから……。パソコンのディスプレイに見入り、原稿を打ち続ける。淡々としているのだが、ずっとそうしていた。作家というのは、実に天職だと思いながら……。
暑い時も原稿を書き綴る。合間に上手に休憩なども入れながら、だ。今まで苦労してきたので、これから先は怖いことがほとんど何もなかった。また笹本たちも原稿督促の電話をしてくるだろう。俺自身、売れない作家であったにしても、だ。
旧型の扇風機の羽がカラカラ回る音がやけに響くのを感じ取っていた。一日中ずっと、である。そして時が流れていく。相変わらず暑さが続いていたのだが……。
(了)