リナリアが枯れる前に
この物語は、「記憶」を巡る少年と少女の物語です。
立ち入りを禁じられた駅で出会った、名前のない少女・リナ。
ヤマネは彼女に名前を与え、短い時間を過ごす。
けれど、その出会いには二人も知らない秘密が隠されていた。
これは、忘れてしまった記憶と、決して忘れられない想いを描いた物語です。
立ち入りが禁じられたその駅は、電車の扉が開いた瞬間から異質な空気を放っていた。
「ここが、例の区域か……」
両親の背中を追いかけながらホームに足を踏み下ろすと、足元から不気味な冷気が這い上がってくる。駅そのものが禁止区域に指定されている理由なんて聞かされていなかったし、知りたくもなかった。胸を押し潰すような圧迫感と恐怖に耐えかね、僕は何度も「帰りたい」と口に出しかけた。けれど、固い表情で先を進む両親を前に、その言葉は喉の奥でつっかえて消えた。
駅の奧へと続く暗がりを進むと、そこは巨大な地下下水道のような空間だった。
頭上からはときおり水滴が落ちる音が重く響き、湿った風が肌をなでる。明かりはほとんどなく、闇の先から何が現れてもおかしくないような不気味さが空間を支配していた。足元に気を配りながら暗闇を通り抜けると、突如として視界が開けた。
——そこに広がっていたのは、見渡す限りの乾いた砂漠だった。
風に舞う砂の向こうに、ポツリポツリと古い家々が建っているのが見える。しかし、そこに人の気配はまったくない。まるで世界から自分たち以外の人間が消え去ってしまったかのような、静寂の世界。
あまりの光景に息をのんだそのとき、視界の隅に小さな色彩が映り込んだ。
見間違いかと思い目を凝らす。
誰もいないはずの砂の上にシートが一枚敷かれていて、そこにぽつんと誰かが座っていた。
近づいてみると、それは僕と同年代——高校生くらいの女の子だった。危険で荒涼としたこの場所に、似つかわしくないほどの存在感を放ちながら、彼女はそこに一人でたたずんでいた。
「やぁ、君がこの区域に入ってきた子かな? ここは危ないよぉー?」
近づいてきた僕に気づくと、彼女は僕の心配から言葉を始めた。危険な場所だというのに、その瞳は透き通っていて、息をのむほど綺麗だった。そして何より、僕に向かって優しく微笑んでくれたのだ。恐怖で縮こまっていた心が、その笑顔ひとつでじんわりと解けていくのが分かった。
「……なんで、ここって禁止区域なの?」
僕が尋ねると、彼女は少し首をかしげ、遠くを見つめるような目をして教えてくれた。
「それはね……この世界には『破損』っていう駅があるの。それが、ここ」
風が吹き抜け、彼女の髪を揺らす。
「第1地下下水道アーク砂漠……元々は『アーク砂漠駅』と言っていたの。だけどここには、たくさんの廃棄物や呪いが溜まってしまったのよ。そうして、この駅はこんな状態になっちゃったの」
淡々と語られる恐ろしい事実。呪い、廃棄物、破損した駅……話を聞けば聞くほど、ここにとどまる理由なんてどこにもないはずだった。
ふと彼女の足元に目をやると、敷かれたシートの上には雑多な小物が並べられている。
(なら、なんでこんなところで露店なんてやってるんだよ……?)
思わず心の中でツッコミを入れた僕の表情を読んだのか、彼女はいたずらっぽく小首をかしげた。
「それはね……君を待ってたから」
冗談交じりにそう言って、彼女はまた、あの胸がキュッとなるような明るく優しい笑顔を浮かべた。
「……君を待ってたから」
冗談めかしてそう言った彼女の笑顔があまりに眩しくて、胸の奥が不規則に跳ねた。
不気味な地下下水道も、広大な砂の静寂も、すべてが遠い世界の出来事のように思えてくる。気がつけば僕は、まだ出会ったばかりの彼女に、すっかり心を奪われてしまっていた。
(この子の名前が知りたい——)
自然とそんな思いが湧き上がり、僕は意を決して問いかけた。
「名前は……なんて言うの?」
すると、彼女は少しだけ困ったように眉を下げ、けれど変わらない明るい声で答えた。
「私、実は名前がないんだ。親もいなくて……だから、こうやって露店を開いてるの!」
自分の境遇を暗く語るでもなく、あっけらかんと笑う彼女。
その姿を改めて見つめる。こんな荒れ果てた危険区域にいるというのに、彼女の肌も髪も驚くほど綺麗で、着ている服も決して汚れてなどいなかった。まるでここだけ、時の流れや呪いが届いていないかのように。
「そうか……」
名前がないという寂しさを少しでも埋めるように、僕は彼女の目をしっかりと見つめて名乗った。
「僕の名前はヤマネだ。よろしくね」
「ねぇ、私に名前付けてみてよ……1回は名前で呼ばれてみたかったんだ。君に名前で呼ばれたら嬉しいな」
まっすぐな瞳でそう言われ、僕は慌てて手を振った。
「おいおい、初めて会うやつに名前をつけられるのはおかしいだろ!?」
そう言うと、彼女は不満そうに少し唇を尖らせた。その瞳はどこか遠くを見つめるようで、まるで『私たちは本当に初めてなのかな?』と僕に問いかけているかのようだった。なんだか不思議な感覚に包まれる。
「じゃあ仮で作ってみてよ。それならいいでしょ?」
引こうとしない彼女に根負けして、僕は彼女の姿をじっと見つめた。危険な砂漠の光の中で揺れる彼女の髪。その鮮やかで可憐な色は、ふと僕の記憶にある野の花を思い出させた。
「……あぁ、それならいいと思うよ。君の髪色はまさに、リナリアの花のようだな」
少し考えてから、言葉を続ける。
「『リナ』っていうのはどうだ?」
僕がそう呼ぶと、彼女の顔がぱっと華やいだ。
「リナ……!」
自分の新しい名前を確かめるように何度もつぶやくと、彼女は今日一番の、とびきり嬉しそうな笑顔を弾けさせた。
リナの敷いたシートの上には、小さな瓶や風変わりなガラス細工が並んでいた。どれもどこか幻想的で、微かに光を帯びているように見える。
「これ……何が売ってるの?」
僕が尋ねると、リナは誇らしげに胸を張り、ひとつひとつの小瓶を指差した。
「ふふん、よくぞ聞いてくれました! これはね、誰かの『記憶の欠片』だよ」
「記憶の欠片……?」
「そう! このアーク砂漠に流れ着いた、誰かの楽しかった思い出とか、大切な記憶が結晶になったものなの。ほら、見て。この青い瓶は『誰かが海を初めて見た日の記憶』、そっちの透明なのは『美味しいケーキを食べたときの幸せな記憶』なんだよ」
少女はまるで宝物を見せる子どものような無邪気な瞳で、僕にひとつずつ説明してくれた。
「へぇ……不思議なものばかりだな」
「でしょう? ほらヤマネ、この黄金色のやつなんかどう? 『誰かに優しくされて胸が温かくなった記憶』だよ。今のヤマネにぴったりじゃない?」
いたずらっぽく微笑むリナに、僕は思わず頬が熱くなるのを感じた。
「……僕には、もうそんな記憶いらないよ」
「え? なんで?」
リナが不思議そうに首を傾げると、僕は慌てて目をそらした。こんな荒涼とした場所で、女の子とふたりきり。ただでさえ心臓がうるさいのに、面と向かって「君との時間が最高だ」なんて言えるはずもない。
「な、なんでもないよ! だいたいさ、そんな怪しいもの買ったって、どうせ僕の住んでる街じゃ使えないだろ」
「もう、怪しくないよー! ちゃんと本物なんだから」
リナは「ぶー」と口を尖らせて抗議してみせる。その子供っぽい仕草が可憐で、僕はますます顔が熱くなるのを隠すために、わざとらしく露店のガラクタに視線を落とした。
「それに……」
「ん?」
「わざわざ誰かの昔の記憶を買わなくたって……今日の、その、変な駅に迷い込んだことくらい、忘れようとしても忘れられない目にあってるからな」
投げやりなふりをして呟いた僕の言葉に、リナは一瞬ぽかんとした顔をした。
けれどすぐに、僕の意地張りな照れ隠しを見破ったように、クスッと可笑しそうに笑う。
「ふふ、そっか。じゃあ今日のことも、ヤマネの『記憶の欠片』になっちゃうね」
「……別に、なりたくてなってるわけじゃないけど」
そう言いながらも、僕は心の中で、彼女のその輝くような笑顔を脳裏に焼き付けていた。素直になれない自分がもどかしいくらいに、この時間が愛おしかった。
砂漠の冷たい風を避けるように、僕はポツンと残された無人の建物——かつて宿屋だったらしい古い場所に一人で足を踏み入れた。
埃っぽい室内に入り、古びたベンチに深々と腰を下ろす。静まり返った空間で、外の砂嵐の音だけが微かに聞こえていた。
ポケットの中で手をギュッと握りしめる。
さっき名付けてあげた「リナ」という名前の響きと、あの眩しい笑顔が脳裏から離れない。今頃彼女は、あの荒涼とした砂漠の上でポツンと一人、シートに座っているのだろうか。
(あんな場所に、女の子一人で置いておけるわけないだろ……)
素直になれない自分だけど、胸の奥ではっきりと強い気持ちが芽生えているのが分かった。明日、ここを発つ前にもう一度彼女のところへ行こう。そして、今度こそ逃げずにちゃんと話をしよう。この場所から連れ出すんだ。
この時の僕はまだ知らなかった。
その「明日」が、僕の思い描いていたようには訪れないということを。
宿屋で一夜を明かし、朝の静けさの中で目を覚ました僕は、宿屋を出て真っ直ぐにあの場所へと向かった。
冷たい風が砂を巻き上げる中、駆け足でアーク砂漠の中央を目指す。昨日、彼女がシートを敷いて座っていたあの場所へ。
「リナ……!」
息を弾ませながら辿り着いたその場所に、彼女の姿はなかった。
色鮮やかなガラクタも、記憶の欠片が入った小さな小瓶たちも、一枚のシートすら残されていない。そこにあったのは、ただ風に撫でられる無機質な砂の山だけだった。
「リナ! どこにいるんだよ! リナ!」
何度も彼女の名前を叫んだ。けれど、返ってくるのは虚しい風の音だけ。まるで最初から、あそこに誰も存在していなかったかのように。
その時、頭上のスピーカーから甲高い警報音が響き渡り、無機質なアナウンスが流れた。
『警告。第1地下下水道アーク砂漠の全域閉鎖を開始します。滞留者は速やかに最終電車に乗車してください』
強制的なアナウンスに追われるように、僕は足をもつれさせながら駅のホームへと走り込んだ。滑り込んできた電車の扉が、重い音を立てて閉まる。
窓ガラスに顔を押し付け、小さくなっていくアーク砂漠を必死で見つめた。
あんなに輝いていた笑顔。
「君を待ってたから」という冗談めかした言葉。
そして、僕が彼女に贈った「リナ」という名前。
(言えなかった……)
好きだという気持ちも、一緒にここを出ようという言葉も、何ひとつ伝えることができないまま、電車は動き出してしまう。
手元に残ったのは、昨日彼女の露店でこっそり買ってポケットに突っ込んでいた、あの中身のない小さな透明な小瓶だけだった。
窓の外に広がる砂漠を見つめながら、僕はただ静かに拳を握りしめた。
二人をつないでいた特別な秘密——それを明かしてくれたのは、リナのほうだった。
運命の解体
「追う」と決めた僕の足は、もう止まらなかった。
現実の世界に戻っても、あのアーク砂漠の光景と、リナの眩しい笑顔が脳裏から離れることはなかった。手元に残された透明な小瓶を強く握りしめ、僕は再びあの「破損した駅」へ、そしてその奥深くへと足を踏みメインための旅に出た。
手がかりを求めて危険区域を巡り、幾つもの古びた記録を読み解くうちに、僕はついにあの場所へ辿り着く。
あらゆる廃棄物と「呪い」の源——すべての歪みが集まる最深部。
彼女は、そこにいた。
「……ヤマネ?」
薄暗い空間の真ん中、禍々しい光を放つ呪いの結界の奥で、彼女はぽつんと座っていた。あの日と同じように。けれどその体はうっすらと透け、空間そのものに縛りつけられているようだった。
「なんで……戻ってきちゃったのさ。ここはもう、引き返せない場所なんだよ?」
彼女は困ったように微笑んだけど、その瞳には溢れそうな涙が浮かんでいた。
アーク砂漠駅に溜まり続ける呪いが外の世界へ溢れ出さないよう、自らを器にして繋ぎ止め続けていた彼女。
「連れて帰る! 今度こそ、絶対に置いていかない!」
僕が結界に向かって手を伸ばすと、見えない壁に弾かれ、強い衝撃が身体を走る。何度も、何度も血が滲むほど手を打ち付ける僕を見て、リナは悲しそうに目を細めた。
「ヤマネ……やっぱり、覚えていないんだね」
「え……?」
ヤマネの手が止まった。結界に叩きつけた血の滲む拳の痛みが、遠のいていく。
「覚えてない……って、どういうことだよ……!?」
呼吸を荒らげながら問い詰めるヤマネに、リナは悲しそうに、けれど愛おしそうに目を細めた。透けかけた彼女の体が、微かに揺れる。
「私ね、言ったでしょ? ここは『破損した駅』で、誰かの記憶の欠片が流れ着く場所なんだ。……ヤマネ、君がポケットに入れているその透明な小瓶。中身は空っぽに見えるかもしれないけれど、本当はね……」
リナは胸元にそっと手を当て、遠い目をした。
「それは、君が私と過ごした記憶を失う直前に、私に預けたものだったんだよ」
ヤマネの頭の中に、突如として激しい痛みが走った。引きちぎられるような衝撃とともに、深く押し込められていた過去の記憶が溢れ出してくる。
(リナリアの花が咲き誇る小さな街。放課後の帰り道。公園のベンチで、お互いに素直になれなくて照れながら笑い合っていた二人——)
「……リナ? 嘘だろ……僕たちは、ずっと昔に……」
「そう。私たちは幼なじみだったんだよ、ヤマネ」
リナはぽろぽろと涙をこぼしながら、穏やかに微笑んだ。
「事故でこの駅の『呪い』が溢れ出そうになったあの日、私はヤマネを守るために、呪いを引き受けてこの場所に残ることを選んだ。そしてヤマネの身を守るために、私に関するすべての記憶をその小瓶に封じ込めて、外の世界へ追い返したの」
ヤマネの瞳から涙が溢れ出た。
初対面だと思っていた。偶然迷い込んだと思っていた。
だが違った。「君を待ってたから」という言葉も、「ヤマネ」と自分の名前を呼ばれたときの喜びも、すべては最初から自分に向けられたものだったのだ。自分が忘れてしまっていただけで、彼女はずっと、たった一人でヤマネを待ち続けていた。
そして何より、幼い頃からずっと、ヤマネはリナのことが好きだった。そしてリナもまた、ヤマネのことを誰よりも愛おしく思っていた。互いに惹かれ合い、心から好きになりあっていたからこそ、二人の運命はここまで残酷に絡み合ってしまったのだ。
「思い出した……! リナ、思い出してよ僕! 好きだったんだ、ずっと……! だから……だから今度こそ一緒に行こう! 帰ろう、リナ!」
ヤマネはなりふり構わず、再び結界に向かって体をぶつけた。だが、最深部に満ちる呪いの黒い霧は、あざ笑うかのように膨れ上がり、リナの体を侵食していく。
「あ……くっ……!」
「リナ!!」
呪いはすでにリナの魂を限界まで蝕んでいた。彼女自身が呪いを封じ込める「器」としての耐用年数を迎え、崩壊が始まっていたのだ。
結界の壁はどこまでも厚く、冷たく、ヤマネの伸ばした手は彼女に届かない。
「ダメだよ、ヤマネ……入ってきちゃダメ。私ね、昔も今も……ヤマネのことが大好きなの。だから、君まで呪われてしまうのは嫌……」
「僕だって大好きだ! 届いてくれ……頼むから、届いてくれよ!!」
いくら叫んでも、いくら血を流しても、結界を破ることはできない。
ヤマネの目の前で、リナの体は一刻一刻と黒い斑点に覆われ、光の粒子となって崩れ去っていく。互いに好きだと伝え合えたのに、自分がどれほど手を伸ばしても、ただ最愛の少女が呪いに呑まれていく姿を「見るだけ」しかできなかった。無力感と絶望が、ヤマネの心を苛む。
「ヤマネ……泣かないで」
リナは最後に残った力を振り絞り、消えゆく右手を結界の隙間からすっと差し出した。
ポトリと、ヤマネの手のひらに小さな金属の触感が落ちる。
それは、繊細な銀の鎖に小さな透明のチャームがついた、一本のブレスレットだった。
「これ……あげ……るね」
弱々しい、けれどどこまでも優しい声が届く。
「そのブレスレットの中に……私たちが過ごした、一生分の記憶の欠片を詰めておいたの。ヤマネと一緒に笑った日も、照れくさくて好きって言えなかった日の記憶も……全部、全部入ってるよ」
ヤマネが手の中のブレスレットを見つめると、チャームの中で黄金色の温かい光が、まるで生きているかのように愛おしく瞬いていた。
「ヤマネにまた会えて、ヤマネの口から好きって聞けて……私、本当に幸せだったよ。……私のこと、忘れないでね」
「リナ!! やめろ、行くな! リナぁぁぁぁぁっ!!」
ヤマネの悲痛な叫びが空間に響き渡るのと同時に、光の柱が立ち昇った。
リナの姿は一瞬で眩しい光と呪いの渦の中に溶け込み、そのまま静かに消滅した。
あとに残されたのは、静まり返った暗闇と、ヤマネの血で汚れた手。
そして、冷たくなった手のひらで温かく輝き続ける、お互いの「好き」と一生分の記憶が詰まったブレスレットだけだった。
駅の崩壊を告げる警報音が、遠くで虚しく鳴り響いていた。ヤマネはブレスレットを胸に強く抱きしめ、二度と戻らない最愛の少女の面影を抱えたまま、一人で地上への階段を上り始めた。
ここまで読んで頂きありがとうございました!この物語何ヶ月か前に作った話だったんですけど投稿してなかったので載せました。この話ちょっと残酷で後味悪いですよね、けどそこに魅力も感じられるのかなと僕は思います!




