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国境の検問所を抜けた瞬間、空気の密度が変わった。
澱んだ湿り気を帯びていた祖国の空気とは違う、凛としていて、それでいてどこか甘やかな、自由の香り。
「ようこそ、バルディア帝国へ。エカテリーナ、ここからは君を縛るものは何一つない」
馬車の中で隣に座るクロード様が、私の肩を優しく抱き寄せた。
彼、クロード・フォン・バルディア。隣国の冷徹なる皇太子と噂されていた彼は、今やその仮面を脱ぎ捨て、私だけを見つめる熱い眼差しを隠そうともしない。
「……まずは、温かいお茶と、柔らかいベッドが欲しいわ」
私が少しだけ甘えるように呟くと、彼は低く、心地よい声で笑った。
「ああ、もちろん。帝都で最も贅を尽くした離宮を用意させている。君が望むなら、街中のドレスをすべて買い占めてもいいし、気に入らない貴族がいれば、明日にはその領地を没収してもいい」
「あら、それは本当の意味で『わがまま』な悪女になってしまいそうですわね」
冗談めかして返したが、彼の瞳は真剣そのものだった。
彼は知っているのだ。私がどれほどの重圧に耐え、泥に塗れた政治の裏側を一人で掃除し続けてきたのかを。だからこそ、その反動ですべてを投げ出そうとする私を、全肯定しようとしている。
数日後、帝都にある「水晶の離宮」にて。
私は、祖国では決して許されなかった「朝寝坊」を満喫し、上質なシルクの寝衣のまま、テラスで遅い朝食を摂っていた。
「エカテリーナ様、バルディア特産の白銀茸のスープでございます」
恭しく給仕をするのは、帝国が誇る精鋭の侍女たち。彼女たちは私を「亡命者」としてではなく、まるで「未来の女帝」であるかのように敬意を持って扱っている。
優雅にスプーンを口に運んでいると、クロード様が公務の合間を縫って姿を現した。その手には、何やら手紙の束が握られている。
「エカテリーナ、例の『ゴミ溜め』から、さっそく泣き言が届いているよ」
「まあ。まだ三日しか経っていませんのに」
私は、差し出された手紙を手に取った。
差出人は、ヴィルヘルム第一王子。……いえ、もう私の婚約者ではないのだから、ただの無能な男だ。
手紙の内容は、読むに堪えないものだった。
『エカテリーナ、君のいない夜会は実に退屈だ。わがままな君を許してやるから、至急王宮へ戻れ。例の結界が少し揺らいでいるようだが、君の魔力で修復すれば済む話だろう? リンネも、君のアドバイスがなくて困っていると言っている』
私は思わず、噴き出してしまった。
「……ふふっ、あははは! おかしいわ、クロード様! 『許してやる』だなんて、どの口が言っているのかしら。結界が揺らいでいる? いいえ、もうすぐ完全に消滅するはずよ」
「彼らは、君が個人的に資材を調達し、術式を維持していたことを、今になっても『王家の威光』だと信じ込んでいるようだね。昨日、我が国の密偵から報告が入ったが、王都の魔石ランプの半分が消え、王宮の噴水も止まったそうだ」
「まあ、大変。聖女様の祈りとやらで、水を出せばよろしいのに」
私は手紙を二つに破り、側の暖炉へと放り込んだ。
炎が、ヴィルヘルムの傲慢な筆致を飲み込んでいく。
「クロード様、お願いがありますの」
「なんだい? 君の願いなら、星を掴んでくる以外は何でも叶えよう」
「星はいりませんわ。ただ……私が祖国に残してきた『私の権利』を、すべて買い取っていただきたいのです。商会の商標、魔導工房の特許、それから、私が独自に開発した品種改良植物の苗木まで」
私は冷淡な笑みを浮かべた。
「あの国の人々は、私の『わがまま』を嫌っていました。ならば、私の作ったものは一つとして、あの国に残しておくわけにはいきませんわ。……すべてを、この帝国へ持ってきます。対価は、私がこの国で新しく始める事業の『税』として納めさせていただきます」
クロード様の瞳に、歓喜の火が灯る。
私がただ守られるだけの小鳥ではないことを、彼は一番理解し、そして愛している。
「いいだろう。君の知恵と権利、すべて私が適正な価格……いや、相場の十倍で買い取ろう。そしてエカテリーナ、君にはこの帝国で『魔導経済顧問』の座を用意する。君のわがままで、この国を世界一の強国に書き換えてくれ」
彼は私の手を取り、深く口づけをした。
「……その代わり、夜は私の『わがまま』も少しだけ、聞いてもらえるかな?」
耳元で囁かれた低音に、頬が熱くなる。
自由になった報いにしては、あまりにも甘すぎる罰だった。
――――
一方、その頃。
エカテリーナが去ったあとの王国では、阿鼻叫喚の地獄が幕を開けようとしていた。
「……な、なぜだ!? なぜ結界が修復されない!」
王宮の地下、魔導碑の前でヴィルヘルムが叫んでいた。
彼の背後では、聖女リンネが必死に手を合わせているが、彼女の微々たる魔力では、広大な国土を覆う結界の綻びを埋めることなど、到底不可能だった。
「殿下、報告いたします! 王都の魔石貯蔵庫が底を突きました! グランバッハ商会が在庫をすべて隣国へ持ち出したとのことです!」
「何だと!? 宰相! 宰相は何をしている!」
「そ、それが……公爵家は現在、莫大な負債の取り立てに追われ、当主は発狂して寝込んでおります……!」
ヴィルヘルムは、目の前が真っ暗になるのを感じた。
エカテリーナの「わがまま」は、わがままなどではなかった。
それは、この国という巨大な機械を動かすための、唯一無二の潤滑油だったのだ。
それを自ら捨てたことに、彼はまだ、本当の意味では気づいていなかった。




