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わがまま婚約者でごめんなさいね。  作者: 逆立ちハムスター


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 会場に満ちた困惑のざわめきを背中で聞きながら、私はクロード様の差し出した手を取り、夜の闇へと溶け込むように馬車へ乗り込んだ。

 豪奢な馬車が石畳を叩く音だけが、静まり返った王都の夜に響く。


「……本当によかったのかい? 君が十年近くも心血を注いで守ってきた国だ。あんな安っぽい断罪劇で、すべてを手放して」


 対面に座るクロード様が、深い紺碧の瞳で私を覗き込む。彼は隣国・バルディア帝国の皇太子でありながら、訳あってこの国に潜入していた「協力者」だ。


「ええ、未練なんて欠片もありませんわ。むしろ、ようやく『わがまま』から解放されるのだと思うと、心が晴れやかです」


 私は扇を口元に当て、くすりと笑った。

 ヴィルヘルム殿下は勘違いをしていた。私が彼に尽くしていたのは、彼個人を愛していたからではない。王妃という地位に伴う「義務」を果たすことが、公爵令嬢としての矜持だったからに過ぎない。

 けれど、彼がその義務を自ら踏みにじり、あまつさえ私を「悪女」に仕立て上げたのだ。ならば、もう私がこの国を支える義理はない。


 馬車は、グランバッハ公爵邸の重厚な門をくぐった。

 玄関先には、私の父――この国の宰相でもあるグランバッハ公爵が、不機嫌そうに腕を組んで立っていた。


「エカテリーナ! 夜会を途中で抜け出すとは何事だ! 殿下から先ほど早馬が届いたぞ。貴様、ついに婚約を破棄されたそうではないか!」


 父の怒声が響く。彼は私の能力を知りながら、それを「女の浅知恵」と軽視し、公爵家の安泰のために私をヴィルヘルム殿下に捧げた男だ。


「左様にございます、お父様。わたくし、殿下に嫌われてしまいましたの」


「おのれ……っ! どれだけ私が苦労してあの無能な王子を支えてきたと思っている! 貴様がもっと淑やかに、殿下の機嫌を取っていればこんなことには――」


「お父様」


 私は、父の言葉を冷たく遮った。

 これまでは「娘」として耐えてきたが、もうその必要もない。


「お忘れですか? あなたが『支えてきた』とおっしゃる王室の財政も、不正を働いていた貴族たちの摘発も、すべて裏で糸を引いていたのは私です。お父様は、私の書いた書類にサインをしていただけでしょう?」


「な、何を不遜なことを……!」


「今夜、私はこの家を出ます。既に荷造りは済ませてありますわ。……ああ、それから。私の私費で運営していた商会と、領地の魔導工房。これらはすべて、今夜中に解散、あるいは隣国へ移転させました」


 父の顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。

 公爵家の資産の八割以上は、私が個人的に築き上げた事業で成り立っている。それが消えるということは、明日からグランバッハ公爵家は、ただの「借金まみれの門系」に成り下がるということだ。


「ま、待て! そんな勝手なことが許されると思っているのか!」


「許されるも何も、これは私の『わがまま』ですもの。お父様もいつも仰っていたでしょう? 『エカテリーナのわがままには困ったものだ』と」


 私は父を冷ややかに一瞥し、クロード様の護衛たちが運び出していた最後のトランクを馬車に積ませた。


「さようなら、お父様。明日の朝、王宮の金庫が空っぽになっていることに気づいても、私に連絡はなさらないでくださいね。……その頃には、私はもうこの国の国境の外にいますから」


 父が崩れ落ちる音を聞きながら、私は再び馬車に乗り込んだ。

 目指すは国境。隣国バルディア帝国へと続く、自由への道だ。


 馬車が走り出して数時間。王都の明かりが遠ざかり、深い森の境界線が見えてきた。

 そこには、この国の防衛の要である「大結界」の起点となる魔導碑が鎮座している。


「クロード様。最後の一仕事、手伝っていただけますか?」


「ああ。君がこの国にかけた『最後の魔法』を解く瞬間を、特等席で見せてもらおう」


 私は馬車を降り、魔導碑にそっと手を触れた。

 この結界は、建国以来、王家の血筋が維持してきたと言い伝えられている。けれど実態は違う。歴代の王家が魔力を失い、結界が枯渇しかけていたところを、私が「わがままな贅沢」として私財を投じ、独自の術式で補強し続けてきたのだ。


 私が指先に魔力を込め、逆回転の術式を流し込む。

 パリン。

 まるで薄い氷が割れるような音が、夜の空気に響き渡った。


 その瞬間、国中を覆っていた見えない膜が霧散していく。

 これから数日のうちに、この国は深刻な魔力不足に陥るだろう。魔導具は止まり、農作物の成長を助ける加護も消え、隣国の脅威に晒されることになる。

 すべては、彼らが「当たり前」だと思って享受していた、私の献身の結果だ。


「さあ、行きましょう。新しい人生の始まりですわ」


 私はクロード様の腕に手を添えた。彼は優しく、けれど強く、私の腰を引き寄せた。


「エカテリーナ。君を『わがままな令嬢』としてではなく、我が帝国の至宝として迎えよう。……覚悟はいいかい? これからは、君の望むすべてが現実になる世界だ」


「あら、それは楽しみですわ。……わたくしの『わがまま』は、高くつきますわよ?」


 私たちは夜明け前の国境を越えた。

 背後の空には、絶望の朝を告げる太陽が昇り始めていた。

 婚約破棄からわずか数時間。私はすべてを捨て、そしてすべてを手に入れたのだ。


 ――わがままな婚約者で、ごめんなさい。

 でも、本物の「わがまま」がどういうものか。

 地獄の底で、ゆっくりと味わってくださいませ。

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