鏡合わせの逆流
パリに春を告げる冷たい雨が、サン=ルイ島の屋敷の窓を叩いている。
マロンは、カミュの膝の間で丸くなっていた。
数日前から、彼の体には異変が起きていた。以前よりもさらに肌は透き通り、指先で触れれば体温で溶けてしまいそうなほど、その存在は「物質」としての確かな実質を失いつつある。
だが、変わったのは肉体だけではなかった。
「……カミュ様」
マロンが、カミュの漆黒のジャケットの袖を、細く頼りない指で掴む。
カミュはいつものように、自分の手首を噛み切ろうとした。だが、マロンはその手首を優しく押し戻した。
「今日は、いらないのですか?」
カミュが訝しげに眉を寄せる。
「いいえ。……今日は、僕が、あなたに差し上げたいのです」
マロンは、カミュに教わった通り、自らの細い手首をカミュの唇に押し当てた。
そこには、以前カミュがハサミでつけた傷跡が、まるでルビーの飾りのように赤く残っている。
「僕の中には、あなたの血が、あなたの命が、もうパンパンに詰まっているんです。……だから、少しだけ、返させてください。そうしないと、僕、甘すぎて壊れてしまいそうだから」
カミュの瞳が、微かに揺れた。
今まで、マロンはただ受動的に「与えられる」だけの存在だった。
だが、今のマロンの瞳には、かつてのマルセルが持っていた「意志」とは異なる、もっと底知れない、静かな光が宿っている。
カミュは誘われるように、マロンの手首に口を寄せた。
(……甘い)
吸い上げた瞬間、カミュの脳内に、暴力的なまでの色彩が溢れ出した。
それは彼が数百年忘れていた「味」の奔流だった。
マロンの血管を流れるのは、確かにカミュの血だ。だが、それはマロンという孤独な器の中で、彼の絶望と、彼がカミュに対して抱く「呪いにも似た愛」によって、さらに濃厚に、さらに毒々しく発酵していた。
「あ……ぐ……っ」
カミュの喉が鳴る。
吸っているのは自分のはずなのに、逆に、自分の魂がマロンの中に吸い込まれていくような錯覚に陥る。
鏡に映る二人の姿は、今やどちらが影で、どちらが本体かも判別がつかない。
マロンは、カミュの項に腕を回し、その耳元で甘く囁いた。
「おいしいですか、カミュ様。……僕をこんなにしたのは、あなたですよ。僕を甘いだけの塊にして、独り占めしたかったんでしょう?」
マロンの指が、カミュの髪を弄ぶ。
支配していたはずのカミュの身体が、マロンの血(毒)を摂取することで、皮肉にも「生」の感覚を呼び覚まされていく。それは耐え難いほどの愉悦であり、同時に、カミュという完璧な静止画を内側から食い破る「腐敗」の始まりでもあった。
「お前は……何を……」
「僕が溶けて消えたあと、あなたの中に残るのは、僕の味だけです。あなたは一生、僕を飲み込み続けた自分を、飲み込み続けるんですよ」
マロンが微笑む。
その笑顔は、第1話の「笑わないマシュマロ」とは正反対の、残酷なまでの美しさに満ちていた。
マロンは、自分がカミュの「お菓子」であることを受け入れた上で、その属性を利用して、主人の空虚な胃袋を自分の毒で永遠に満たそうとしているのだ。
鏡の中、二人の影は溶け合い、一つの歪な形となって、パリの深い夜に沈んでいった。




