硝子の空腹
サン=ルイ島の屋敷に、午前二時の鐘が遠く響く。
マロンがようやく眠りに落ちた後、カミュは一人、書斎の暖炉の前で安楽椅子に身を預けていた。
手元には、クリスタル・グラスに注がれた琥珀色のブランデーがある。パリの好事家たちがこぞって求める最高級の銘酒だが、カミュがそれを口に含んでも、喉を焼く酒精の熱さすら砂を噛むような無機質さにしか感じられない。
彼にとって、この世界のすべては「静止」している。
あるいは、不快な音を立てて「腐りゆく」のを待つだけの、無価値な堆積物だ。
カミュは、自らの白皙の手を月光に翳した。
透き通るような皮膚。その下を流れる漆黒の血。彼はもう、自分がいつからこの姿で、いつから「味覚」を失ったのかも覚えていない。
ただ、胸の奥底にぽっかりと開いた、硝子の破片で縁取られたような「空洞」だけが、凍てつくような存在感を放ち続けている。
(……空腹だ)
それは胃が求める飢えではない。
魂が、自分以外の何者かの実感を求めて叫ぶ、救いようのない渇きだった。
かつて、カミュにも「人間」として誰かを慈しもうとした季節があったような気がする。だが、その記憶はセーヌ川の泥底に沈んだ遺体のように、今や判別もつかないほどに崩れ去っている。
彼が学んだ唯一の真理は、形あるものはすべて裏切るということだ。
愛を誓った唇は数年で皺寄り、輝いていた瞳は濁り、やがては土に還る。
その「喪失」という恐怖から逃れるために、カミュが行き着いた結論。
それが、対象を「完成された菓子」へと作り変えることだった。
(腐るのが怖いなら、砂糖に漬けてしまえばいい。壊れるのが嫌なら、私の血でその輪郭を塗りつぶしてしまえばいい)
マロン——かつてのマルセル。
泥の中で喘いでいたあの少年を見つけた時、カミュが感じたのは慈悲ではなかった。
それは、真っ白なキャンバスを前にした画家の悦びに似ていた。
この無垢な少年を、一滴、また一滴と自分の毒で汚し、男としての矜持を溶かし、自分なしでは呼吸さえままならない「おもちゃ」へと変質させていく過程。
マロンが「あまい、のがほしい」と泣き叫び、カミュの腕に縋り付くたび、カミュは人生で唯一の「味」を感じることができた。
それは依存という名のスパイスが効いた、濃厚な生の充足感。
マロンが壊れれば壊れるほど、カミュの空洞には、一滴の甘い蜜が滴るのだ。
「……ふふ、あははは……」
カミュは静かに、しかし狂気を孕んだ声で笑った。
鏡に映る自分は、相変わらず完璧で、美しく、そして死んでいる。
席を立ち、隣室の寝室へと向かう。
そこには、純白のシーツに埋もれて眠るマロンの姿があった。
シュミーズから覗く肩は丸みを帯び、指先はもはや剣を握ることなど想像もできないほどに柔らかい。
カミュはベッドの傍らに膝をつき、眠れるマロンの額にそっと唇を寄せた。
マロンの体からは、カミュが与えた血の香りが、バニラのように甘く漂ってくる。
「お前は幸せだね、マロン。お前はもう、何者にも、時間にも裏切られることはない。私の腕の中で、永遠に甘いだけの存在でいられるのだから」
だが、そう囁くカミュの瞳には、湿り気など微塵もなかった。
どれほどマロンを自分の一部に作り変えても、どれほど彼の魂を食い尽くしても、カミュの「硝子の空腹」が完全に満たされることはない。
カミュはマロンの髪を一房指に巻きつけ、強く引き絞った。
眠りの中でもがき、微かな苦悶の声を漏らすマロン。
その痛みに反応して、マロンの体からさらに濃厚な甘い香りが立ち上る。
(もっとだ。もっと、私に溺れ、私に塗りつぶされておくれ)
夜が明ければ、またマロンは空腹に泣き、カミュに縋るだろう。
その歪な共依存だけが、このパリの片隅で、カミュが「生きている」と感じられる唯一の儀式だった。




