サン=ルイ島の密やかな食卓
19世紀末、パリ。
ガス灯の光が石畳をぼんやりと照らし、セーヌ川の川面には汚濁と享楽が混ざり合った街の影が揺れている。
サン=ルイ島の一角に佇むカミュの屋敷は、外界の喧騒を拒絶するように沈黙していた。重いカーテンは常に閉ざされ、ここでは太陽の運行ではなく、カミュの気まぐれだけが時間を支配している。
「……マロン。おいで」
カミュの低い声が寝室に響く。
天蓋付きのベッドで丸まっていたマロンは、その声に弾かれたように顔を上げた。かつての「マルセル」としての凛々しさは、今や一欠片も残っていない。
マロンはベッドから滑り落ち、四肢を投げ出すようにしてカミュの元へ這い寄る。
床に擦れる膝は、文字通りマシュマロのように白く、肉感的だ。カミュに命じられるまま、彼は「男の娘」として、女物の高価なシルクのシュミーズだけを纏わされている。
「お腹が空いたね。今日は、少し『趣向』を変えてみようか」
カミュは、アンティークの銀盆の上に置かれた小さな、しかし鋭利な銀のハサミを手に取った。
マロンの身体が微かに震える。恐怖ではない。次に何が与えられるのかという、狂おしいほどの期待に喉が鳴るのだ。
カミュはマロンのシュミーズの肩紐を指で払い、露わになった白い鎖骨のあたりを冷たい指でなぞった。
「マロン、お前は私の血でできている。お前の血管を流れているのは、もはやお前の血ではなく、私の蜜だ。……ならば、お前の体もまた、私にとっての『糧』であるはずだと思わないかい?」
「カミュ……様……? 僕は、あなたの、おもちゃ……ですから……」
マロンは恍惚とした瞳でカミュを見上げる。自我が溶けかかった彼の頭脳では、カミュの言葉の真意など理解できない。ただ、自分を支配するこの男の体温だけが世界のすべてだった。
カミュは銀のハサミを、自らの指先ではなく、マロンの細い指の腹に当てた。
チクリとした痛みと共に、小さな、赤い真珠のような血が滲む。
「……あ……っ」
「お前の血だ。だが、香りを嗅いでごらん」
カミュに促され、マロンは自分の指先を鼻に近づけた。
鼻腔を突いたのは、鉄の匂いではない。
それは、バニラと焦がし砂糖が混ざり合ったような、あまりに甘美で、あまりに異常な「お菓子」の香りだった。
「僕の……血が……あまい……?」
「そうだ。お前はもう、私がいなければその甘さを維持することすらできない。……さあ、今夜は私の血ではなく、お前自身の甘さを私に捧げるんだ」
カミュはマロンの手を引き寄せ、その傷口を自分の唇で塞いだ。
吸い上げられる感覚。
マロンは背中を反らせ、声にならない声を上げた。自分の命が、カミュという大きな器の中に吸い戻されていくような錯覚。
与える側から、奪われる側へ。
あるいは、両者が混ざり合い、どちらが誰の血を啜っているのかも分からなくなる境界線。
「ん……ぅ、ぁ……っ!」
マロンの視界が火花を散らす。
カミュに吸われている場所から、全身が熱く溶け出していく。
パリの夜霧が屋敷を包み込み、窓の外では馬車の蹄の音が遠ざかっていく。
今のマロンにとって、自分が男であるか女であるか、あるいは人間であるか菓子であるかなど、どうでもいいことだった。
ただ、この薄暗い部屋の中で、カミュという絶対的な主権者に貪られ、溶かされ、再構築されることだけが、彼に残された唯一の「生」の証明だった。
「……いい子だ。本当にお前は、極上のマシュマロになったね」
カミュが唇を離すと、マロンは力なく床に倒れ込んだ。
その顔には、もはや人間らしい意志など微塵もなく、ただ主人の賞賛に悦ぶ、空虚で美しい「微笑」の残骸だけが浮かんでいた。




