泥の中の宝石
カミュの屋敷の地下、冷たいタイルが敷き詰められた浴室。
そこが、僕——「マルセル・ド・ラ・パンセ」が死に、「マロン」という菓子が産声を上げた場所だった。
「……やめてくれ、放して……っ!」
数年前のあの日、僕の声にはまだ、少年特有の硬さと、貴族としての矜持が宿っていた。
借金取りに売られ、行き着いた先がこの世離れした美貌を持つ青年、カミュの屋敷だった。僕は引きずられるようにして連行され、数人の無口な使用人たちによって、泥に汚れた服を無残に切り裂かれた。
没落したとはいえ、僕は男爵家の跡取りだ。
剣を振るい、領地を守る術を学ぶはずだった身が、家畜のように洗われ、値踏みされている事実に、震えが止まらなかった。
「……騒がないでおくれ。耳に障る」
低く、温度のない声が響いた。
使用人たちが一斉に道を開ける。そこに立っていたのは、漆黒の夜を纏ったような男、カミュだった。
彼は濡れた床を厭うこともなく僕に近づき、屈み込んだ。
「ひっ……」
反射的に身を竦めた僕の顎を、彼の白い指先が容赦なく掬い上げる。
冷たい。
氷の楔を打ち込まれたような感覚に、呼吸が止まった。
「マルセル。それがお前の名か。……硬くて、不味そうな名だ」
「なっ……」
「今日からは『マロン』と名乗りなさい。お前は今日から、私を愉しませるためだけの、白くて柔らかいお菓子になるんだ」
「ふざけるな! 僕は男だ、あんたの玩具になんて……!」
叫びは、最後まで続かなかった。
カミュの手が僕の頬を撫で、そのまま耳たぶを強く捏ね上げたからだ。その動作は愛撫というにはあまりに暴力的で、それでいて、どこか壊れ物を扱うような危うい手つきだった。
「男、か。……確かに今はそう見える。だが、じきに忘れるよ。お前が何者だったのか、何を持っていたのか。すべて、この私が溶かしてあげるからね」
それから数日間、僕は窓のない部屋に閉じ込められた。
与えられるのは、水と、そして「教育」という名の調教だった。
「男としての歩き方」を禁じられ、指先の動き一つ、視線の配り方一つまで、徹底的に「可憐であること」を強いられた。抗えば食事を抜かれ、屈辱に涙を流せば「美しい、そのまま泣いていろ」とカミュに髪を梳かれた。
衰弱は、驚くほど速く僕を蝕んでいった。
空腹と絶望の果てに、僕は自分の名前さえ思い出せなくなり始めていた。
鏡の中に映る僕は、レースの付いた薄物の一枚布を纏い、肌は不健康なほどに白く透け、かつて剣を握っていたはずの掌は、驚くほど柔らかく、ふやけていた。
ある夜、限界が訪れた。
喉が焼け、意識が朦朧とする中で、僕は部屋の扉が開く音を聞いた。
「マロン。お腹が空いたかい?」
カミュだ。
彼はベッドに横たわる僕の隣に腰掛け、慈しむような手つきで僕の細い喉筋をなぞった。
「カ……カミュ、様……。なにか、……なにか、食べさせて……」
あれほど拒んでいたはずの名前を、僕は自ら口にしていた。
カミュは満足げに目を細めると、おもむろに自分の手首を口元へ持っていき、自らの牙で、あるいは隠し持っていた刃で、その皮膚を裂いた。
漂ってきたのは、あの、逃れられない甘い香り。
「お食べ。これが、お前の新しい命だよ」
差し出された手首から、黒い滴がこぼれ落ちる。
僕は一瞬だけ、理性の残滓で踏みとどまった。これを飲めば、僕はもう人間ではなくなる。カミュという怪物の、一部になってしまう。
だが、空腹は、そして彼に認められたいという歪んだ渇望は、プライドよりも遥かに強かった。
「……あ」
僕は吸い寄せられるように、彼の傷口に唇を寄せた。
初めて触れたその血は、想像を絶するほどに甘く、熱かった。
(ああ、僕は……)
一口啜るごとに、マルセルという少年が死んでいく。
男としての誇りが、家名への責任が、未来への希望が、すべてこの黒い蜜に溶けて、消えていく。
代わりに、空っぽになった僕の心を満たしていくのは、カミュの支配という名の狂おしい充足感だった。
僕は彼の腕に縋りつき、むせび泣きながら「それ」を飲み込み続けた。
カミュが僕の頭を優しく撫で、耳元で囁く。
「いい子だ。……もう、笑わなくていい。お前はただ、私のために甘く存在していればいいんだよ」
その時、僕は確かに感じた。
僕の中で何かが決定的に壊れ、二度と繋ぎ合わされることはないのだと。
暗闇の中で、僕はただ、自分をマシュマロのように作り変えていく「主人」の温度に、身を委ねることしかできなかった。




