甘い毒、黒い滴
窓外に広がる冬の月光すら、この部屋の寒気を温 めることはできない。
天井の高い応接室。重厚なマホガニーの調度品は、持ち主の趣味を反映してか、どれも角が鋭く、人を拒絶するような冷徹さを放っている。
その冷え切った絨毯の上を、マロンは這っていた。
「……あ、……ぁ…………」
喉の奥から漏れるのは、言葉にならない湿った吐息だ。
かつて、街の少年たちの中心で太陽のように笑っていたマロンの肢体は、今や見る影もない。薄い絹の寝衣から覗く肌は、まるで作りたてのマシュマロのように白く、指で押せばそのまま形が崩れてしまいそうなほど、病的な柔らかさを帯びている。
彼の意識は、すでに混濁の海に沈んでいた。
自分がなぜここにいるのか。なぜ、この男の足元に縋り付いているのか。誇りも、かつての瑞々しい記憶も、明日への希望も、すべてが熱に浮かされた砂糖菓子のように溶け落ち、消え去ろうとしている。
残っているのは、ただ一つ。脳を焼き、脊髄を震わせる、暴力的なまでの「渇き」だけだ。
「カミュ……様……。あまい、のが……あまいのが、ほしい……」
マロンは震える指先で、カミュの漆黒のズボンの裾を掴んだ。
見上げれば、そこには彫刻のように整った、しかし血の通わぬ無機質な美貌がある。カミュは背もたれに深く腰掛けたまま、足元で悶える「出来損ないの菓子」を、ただ静かに見下ろしていた。
「……また、欲しくなったのかい? マロン」
カミュの声は、低く、滑らかで、深い。その声に含まれた微かな慈悲は、死にゆく者に与えられる最期の宣告にも似ていた。
「もう……がまん……できないの……。ここが、いたい、の……」
マロンは自分の胸元を掻きむしった。男としての平坦な胸板は、吸血鬼の呪いによって異様なほど感度が研ぎ澄まされ、空気に触れるだけで熱を帯びる。内側から焦がされるような飢餓感。カミュから与えられる「それ」がなければ、自分の輪郭が維持できない。
今すぐ霧となって消えてしまいそうな恐怖に、彼は大粒の涙をこぼした。
「強情だね。あれほど、もう二度と食べたくないと泣いてすがったというのに。……人間の食事は、もう受け付けないのだろう?」
カミュの指摘は正しかった。つい数時間前、カミュの温情で運ばれてきたコンソメスープを、マロンは一口も飲み込むことができなかった。かつては美味と感じたはずのそれが、今や泥水よりも不快な臭気を放つ汚物にしか思えなかったのだ。
カミュは溜息を吐き、傍らのサイドテーブルに置かれたペーパーナイフを手に取った。銀色に光る刃が、彼の白皙の手首に当てられる。
「いいだろう。お前がそれを望むなら」
無造作な動きだった。鋭い刃が、透き通るような皮膚を易々と裂く。
だが、そこから溢れ出したのは、およそ生き物のものとは思えない異形の色だった。
どろりと粘度の高い、漆黒の液体。
それが床に滴るよりも早く、部屋の空気が一変した。
甘い。
抗いようのない、濃厚なチョコレートの香りが、肺の隅々まで侵食していく。芳醇で、重く、官能的なその香りは、嗅ぐだけで理性を麻痺させる猛毒だった。
「さあ、お食べ。お前は、これなしではもう生きられないだろう?」
「ああ……っ!」
マロンの瞳から、知性の光が完全に消失した。
彼は獣のような速さでカミュの膝に這い上がり、その傷口に食らいついた。
「ん、ぅ……っ……あぐ、ん…………」
口内に広がるのは、この世のものとは思えない悦楽の味。熱く、どろりとした漆黒の血が喉を通るたびに、凍えていたマロンの細胞が一つずつ、狂喜に震えながら蘇っていく。
マロンの背中が、弓なりに反った。
「おいしい……おいしいです、カミュ様……っ」
彼の頬は朱に染まり、恍惚とした表情で何度も喉を鳴らす。カミュの腕を掴む指先には力がこもり、爪がカミュの肌を浅く傷つけるが、カミュは眉一つ動かさない。
カミュはその光景を、冷めた、しかしどこか満足げな目で見つめていた。
彼は空いた方の手で、マロンの白く柔らかな髪を優しく、慈しむように撫でる。その手つきは、溺愛するペットを愛でる飼い主のそれであり、あるいは——最高級の食材を吟味する料理人のそれであった。
不意に、カミュの手が止まった。
マロンの細い項、その髪の生え際に触れた指先が、微かな違和感を捉える。
皮膚の下に、砂粒ほどの「硬いしこり」がある。
それはマシュマロのようなマロンの肉体には存在してはならない、異質な結晶だった。
(……始まったか)
カミュの唇が、音もなく歪む。
それは「賞味期限」の訪れを告げる、死の芽吹き。カミュの血という高純度の糖分を摂取し続けた代償として、マロンの肉体は内側から変質を始めているのだ。
やがて、吸血に満足したマロンが、力なくカミュの胸元に顔を埋めた。唇の端からは漆黒の雫がこぼれ、白い肌を汚している。
「……マロン。お口直しだ」
カミュはサイドテーブルから一粒の白いマシュマロを取り上げると、それを自らの唇に含み、虚脱状態にあるマロンの口元へ寄せた。
マロンは本能的にそれを受け入れる。鼻をくすぐるバニラの香りと、カミュの唇の感触。マロンにとって、それは唯一の世界との接点だった。
「カミュ様……ぼくを……捨てないで……」
「あぁ、捨てないよ。お前が動かなくなるその日まで、私はお前を愛でてあげよう」
カミュはマロンの背中を抱き寄せ、その冷え始めた肌にそっと触れる。
この少年が、自分なしでは呼吸さえできなくなるまで。
その心も体も、完全に「砂糖漬け」になって、意志を持つ人間としての機能を失うまで。
マロンはまだ知らない。
自分が貪っているのは慈悲ではなく、魂を腐らせる甘い呪いであることを。
そして、その呪いが完成した時、自分という存在がひと欠片の「結晶」に成り果てることを。
『マシュマロは二度と笑わない』
漆黒の液体を啜り終えたマロンの目には、もう、カミュの冷徹な正体を見抜く力は残されていなかった。
カミュの胸元で微睡む少年の肌は、月光を浴びて、恐ろしいほど美しく、そして硬く、結晶化の兆しを孕んで輝いていた。




