煌めきは暗闇の中
「李尚宮……いいえ、恩彬。あなたね?」
影がぴたりと止まった。その刹那、扉が開いた。そこには深緑のチョゴリを身につけた若い尚宮が蠱惑な笑みを浮かべて立っていた。この尚宮はヨンエの知っている人物であった。名前はウンビン、姓は李という。至密内人から僖宗の承恩尚宮になった女である。李尚宮はヨンエに近づくと身をかがめながらわざとらしく口を開いた。
「可哀想なヨンエ……私より先にお手つきになったのにまだ内人だなんて……」
ウンビンはそっとヨンエの顔に指を伸ばした。ウンビンの指がヨンエの輪郭を優しいくなぞる。ウンビンはヨンエの肌の柔らかさにいささか嫉妬を覚えた。
「触らないで。虫唾が走る」
ヨンエは指を払い除けて低い声で、また睨みつけながらウンビンに言い放った。ウンビンは不気味な笑みを浮かべて指を引っ込めた。
「ねぇ、そんなこと言わないで」
ウンビンはヨンエの目の前に腰を下ろした。ヨンエは視線を逸らして彼女の顔をあえて見ないようにした。彼女の蠱惑で不気味な笑みが計算高い自分と重なるようで吐き気がしたからだ。
「ヨンエ、今日のお渡りで尚宮になれるかもしれないわよ?殿下はとてもご機嫌なの」
「殿下のご機嫌が何の関係があるの?」
ぶっきらぼうにヨンエが言うとウンビンは狙い済ましたように鋭く告げる。
「張昭媛媽媽がご懐妊したわ」
ヨンエは目を丸くした。彼女は明らかに動揺している。その姿をウンビンはどこか見下すような気持ちで眺めていた。ヨンエは込み上げてくる感情を吐き出したかったが、ウンビンだけにはしたくなかった。だから、感情を押し殺して平静を装うことに精一杯になっていた。
「あの目立たなかった昭媛媽媽がご懐妊できるなら私たち末端の女人も希望がもてるわね。そう思わない?」
「ウンビン、あんた何がしたいの?どの側室が懐妊しても殿下は私を求めるわ!絶対、そうよ!張昭媛が懐妊したのはまぐれ!そんな理由で私を尚宮にはしないわ!」
ヨンエはウンビンに言い放つと勢いよく立ち上がり、側殿から出て行った。1人になったウンビンは何食わぬ顔で目の前の酒に手を伸ばした。
「馬鹿な女」
ウンビンは酒を注ぐと一気に飲み干した。酒はどことなく苦い味がした。
――ヨンエが側殿から出て行った頃、大殿の蝋燭は小さな炎をゆらゆらとさせていた。
大殿に尚膳がご機嫌伺いにやって来た。部屋に尚膳が入ると僖宗は机に向かい書を熱心に読んでいた。
「殿下、灯りが小さくなりました。交換いたしますか?」
「構わぬ。そのままにしてくれ」
尚膳は苦笑いしながら懲りずに声をかける。
「書を読むには暗くありませんか?そのように熱心に読まれるなら尚更でございます」
僖宗が顔をあげて柔らかい笑みを内侍に向けた。そして書を閉じると思い出したかのように尚膳に尋ねる。
「そういえばヨンエの支度は終わったのか?」
「はい。側殿でお待ちになっております」
僖宗の表情が明るく変わった。僖宗は特にヨンエを気に入っていたのである。ヨンエを尚宮にしなかったのは内人と恋をしているという禁断の恋を味わってみたかったからだ。その相手としてウンビンを試してみたが成熟した女だったせいか新鮮味が欠けていた。だから、そうそうに尚宮にして放ったらかしにしている。僖宗は多情なうえに非情な一面も持ち合わせていたのだ。
「今夜こそは尚宮になさっては?もう……」
僖宗は手を上げて尚膳の言葉を遮った。そして僖宗は言った。
「ヨンエは内人のままが一番、楽しいのだ。余は少年に戻れるのだ。ヨンエの作る巷の菓子を食べると尚更である」
「ですが、ヨンエはそれで苦しんでいるそうでございます。それにお手つきの内人には尚宮に昇格するのが規則でございます」
尚膳の言葉に僖宗は考え込んだ。確かにいつまでも内人にしておく訳にはいない。それにヨンエにも申し訳ない。僖宗はヨンエに後ろめたさを感じ始めた。
「殿下、それに張昭媛媽媽もご懐妊なさいましたし、2人同時に昇格させればていがよいのでは?」
「そうだ!その通りだ!正直、ヨンエを尚宮にする時期が掴めなかったのだ」
尚膳は僖宗の言葉に胸を撫でおろした。ヨンエの境遇は尚膳の耳に入っていた。だから、余計に彼女を尚宮にしようと考えていたのだ。尚膳の目にはヨンエが健気で非力な内人に映っていた。尚膳はヨンエの策略に見事にはまったのである。
「尚膳、ヨンエに会いに行くぞ!」
僖宗は意気揚々と立ち上がるとヨンエの待つ側殿へと向かった。部屋の外には提灯を手にした尚宮が控えていた。その薄明かりの中に大殿尚宮がたたずんでいる。皺がくっきりと見える顔が僖宗の方を向くと、彼女は慣れた様子で頭を下げた。
「ヨンエに今から向かうと伝えてくれ」
僖宗は手短に大殿尚宮に言った。
「かしこまりました」
大殿尚宮も手短に僖宗へ返事をする。
「ヨンエが尚宮になったら嘉礼を挙げて慰めよう。いい考えだろう?」
「尚宮が嘉礼とは……長くお仕えしておりますが……」
尚膳は言葉を濁した。承恩尚宮が嘉礼を挙げたことはなかったが、僖宗は前例をひどく嫌っていた。そして前例を作ることを好んだ。政治の停滞は前例が原因であると決めつけていたし、そう思い込んでいた。
僖宗は善政を継承したが、いつかは自分が作り出した政治を行いたいと野心を抱いていた。
「そういえば……」
僖宗が呟く。尚膳はそれを聞き逃さなかった。
「いかがなさいましたか?」
僖宗は思い出すように言葉をひねり出す。
「いや、韓家の……スヒョン嬢はどうなった?」
「ああ!」
尚膳は微笑みながら僖宗を見つめると穏やかな口調で彼に告げる。
「入内が決まりました。あとは大王大妃媽媽が全て用意なさるそうです」
尚膳は声を弾ませて僖宗に告げた。
「そうか!嘉礼都監を置かねば……」
「さようでございますね。それと大王大妃媽媽が全てを用意なさるそうです」
僖宗は納得いかないのか、どこか不満げであった。尚膳はその理由が分からなかった。尚膳は内命婦のことは中殿よりも大王大妃が管理した方が良いと考えていた。
「まずは中殿に相談してもらいたい」
「中殿媽媽はご正室ですが、王室の長は大王大妃媽媽でございます」
尚膳の言葉を聞いて僖宗は少し考え込んだ。内命婦や外命婦を統括するのは国母である中殿の仕事である。だからスヒョンのことも中殿に任せたい気持ちが僖宗にはあった。
提灯の灯りが大きく揺れる。尚膳の男でも女でもない顔が照らされた。尚膳は困惑の表情を強く浮かべている。それを見て僖宗は祖母である、大王大妃の影響力がまだ後宮に残っているのだと実感する。
しかし、大王大妃の影響力以上に力を宿した人物もいる。自身の母を辺鄙な土地に追いやった儀嬪だ。儀嬪は祖父を誘惑して傀儡化した妖婦である。妖婦という表現は僖宗が言い出したのではなく、当時を知る善良な人間たちが言い出したものであった。
祖父の信祖と祖母の大王大妃は冷えきった仲だった。なぜなら祖父が大王大妃の家族を次々に粛清して権力を無理やり奪ったからだ。それに対抗するべく大王大妃も残った力を駆使して信祖から権力を剥ぎ取った。
2人は夫婦というより政敵であり、感情など流れる隙間のない関係であった。
「あとで中殿の意見を聞きにいこう。ところで尚膳、儀嬪はこの話を知っているのか?」
「さあ……」
僖宗には歯切れの悪い受け答えのように感じたが、尚膳は本当に分かっていなかった。正直、儀嬪の行動は不明なことが多く、突拍子もない行動をとることもあった。その行動に伴う全ての言動は常に僖宗と対立するものであった。
「知られていなければいい」
朧月の夜空を見上げた僖宗はか細く言った。それは尚膳の耳には届かなかった。朧月が完全に雲の中に消えた途端に星が煌めきを強める。この後宮も誰かが輝けば、誰かが光を失う。そのように儚いものだと僖宗はまだ知る余地もなかった。