趙飛燕
ヨンエは永壽殿から踵を返した。住居の長房で気持ちを落ち着かせに行こうとしたからである。ヨンエが息を荒らげて歩いていると老尚宮が慌てて彼女を呼び止めた。
「ヨンエ!ああ、どこにいたのだ!」
「媽媽任、申し訳ございません」
ヨンエは気まずそうに老尚宮に頭を下げた。老尚宮はため息を着くと彼女を見つめた。そして小声で告げる。
「今夜、お渡りがある。準備をしておくのだ」
嬉しさで顔がほころぶのがわかる。ヨンエの胸は高鳴った。そしてスヒョンに対する優越感も抱いた。
選ばれるのは私なのよ……
まつ毛の長い瞳に嫉妬が揺らぐ。ヨンエはそれを見せないように弱々しく老尚宮に返事をした。老尚宮はそれだけを伝える為だけに来たのかすぐに帰って行った。そこに2人組みの内人が現れた。
この2人組みはサモルとナヨンと言った。ヨンエにとっては天敵中の天敵である。自分と顔を合わせれば常に陰口、悪口を言い放つ厄介な女たちだ。
「あら、ヨンエ。聞こえたけどお渡りがあるの?」
サモルがヨンエを品定めするかのように見回しながら声をかけた。ヨンエの眉間にシワがよる。
「そうよ。何か問題でも?」
次はナヨンが口を開いた。
「今日こそは尚宮になれると良いわね!」
ナヨンは声を上げて笑った。つられるようにサモルも声を上げて笑った。その様子を遠目から見ていた内人や内侍らはざわついた。好機の眼差し、心配する声、見て見ぬふり、感情の全てがここに凝縮されたようだった。
「お手つきになったことがない人間は分からないのね。殿下には殿下のお考えがあるのよ……」
ヨンエはチョゴリの袖で目頭をおさえた。
「殊勝なことを言ってもアンタは負け犬よ!泣き真似なんかしちゃって!」
ヨンエは気にする素振りも見せず、そのまま歩き出した。サモルとナヨンは彼女の手を握って引き留めようとしたが、彼女は振りほどいてすたすたと歩いて行った。
集まっていた内人や内侍は両脇に控えてヨンエに道を譲った。お手つきになった彼女を傷つけることはできない。いつか側室になったときに復讐されたらたまったものではないからである。
「なんなの?あの態度は!」
サモルは悔しそうに吐き捨てた。ナヨンはサモルの手を引いて洗濯物を取りに向かった。その様子を見た内人と内侍たちも散り散りになって消えていった。その中の内侍の1人が呟いた。
「お手つきの内人に絡むなんて。怖いもの知らずなやつらめ」
呼応するように別な内侍が小さな声で言う。
「あいつらは命が惜しくないんだよ。ヨンエが尚宮になってみろ。報復されるのは間違いないさ」
「おーこわや、こわや」
2人の内侍は話しながら庭手入れの仕事に戻っていった。
その会話はヨンエに聞こえていたかは分からなかったが、ヨンエの特殊な立場は現場でかなり扱いにくいものだった。
ヨンエが長房に戻ると湯浴み係の尚宮がすでに到着していた。ヨンエは笑顔で湯浴み係の尚宮に丁寧にお辞儀をした。湯浴み係の尚宮は深々とお辞儀を返した。
「湯浴みのあと爪を整えて殿下をお迎えください」
湯浴み係の尚宮は丁重な口調でヨンエに告げる。
「分かりました」
ヨンエはこういう扱いを誰からも受けたかった。だから、サモル、ナヨンのような輩は大嫌いであった。しかし、声を張り上げることや平手打ちをすることは決してしなかった。なぜなら、周囲へ屈辱に耐える健気なお手つき内人という印象を与えたいからである。内人が登り詰めるには悪知恵を働かせなくてはならない。ヨンエは嫉妬深さの中に狡猾さを秘めていた。
湯浴み係の尚宮に促されてヨンエは湯殿でチマチョゴリを脱いだ。湯殿からは湯気が立ち込めて、ほのかに薔薇の艶やかな香りが漂ってきた。湯殿には大きな桶があり、湯には薔薇の花びらが小舟のように浮いている。
ヨンエは浴衣に着替えて湯船に浸かった。髪をかきあげた姿は魅惑的である。湯浴み係の尚宮は背中を流して僖宗を迎えるための準備を進めていく。それは手馴れており、誰にでも同じように仕えているのだとわかる。交わす言葉も少なかった。
ヨンエは湯浴みは美しくなるためっと考えていた。彼女は自分が美貌であるのを熟知しており、その色香でしか人生を変えられないと分かっていた。ヨンエの人生は決して恵まれたものではなかった。両班の娘であったが、奴婢の娘であったために父親の死後にお払い箱のように安尚宮へと売りつけられたのである。それと同時期に奴婢である母を亡くし、安尚宮へ借金する形で葬式をあげたのだ。
安尚宮はとことん汚い人物であった。高利貸しや人さらいまがいの商売を秘密裏に行っていたのだ。
あんな女、早く死ねばいいのに……!
理不尽に頬を叩かれた時にヨンエはいつも心の中で叫んでいた。憎くても借金があるため我慢するしかなかったのである。ヨンエはその時のことをたまに思い出すが、人生においてもっとも屈辱な日々だと回想した。そんな安尚宮はヨンエが内人になった初めの年に死んだらしい。らしい、とは王族以外は宮中では最期を迎えられないため、病気の内人、内侍、尚宮らは追い出されて詫びしく死を迎えるのである。だから、安尚宮も規則通りに追い出されたのだ。だからヨンエは安尚宮の最期はどうであったかは分からなかった。ただ、ヨンエはそれで良いと納得していた。
「嫌な記憶……早く消えればよいのに」
ヨンエは目を閉じて僖宗の顔を思い出した。浮かぶのは優しい言葉と少年のような笑みだ。ヨンエは僖宗の笑みを見るのが好きであった。この笑みは自分だけに見せているのだと確信があったからだ。
噂だと側室たちの前では厳格で笑みすらこぼさないらしい。しかも、寵愛する貴人朴氏にすら本心を吐露したこともないらしい。それがヨンエの執着的な愛に繋がったのは間違いなかった。
「内人、そろそろ湯からあがりましょう」
湯浴み係の尚宮は優しく声をかけた。ヨンエは黙ってそれに従った。そして一糸まとわぬ姿になった。湯浴み係の尚宮は手早く清潔な衣服を着せていった。ヨンエは黙って着せ替え人形のように身を委ねた。
ヨンエは碧緑のチョゴリを着せられて別室で爪を切り、化粧を施された。桜色の頬紅をはたいてから内人では手が出ない高級な紅を唇に薄くと塗る。ヨンエは化粧に注文をつけてお渡りの日は薄化粧にしていたのだ。
鏡に映る自分の姿にヨンエは淡い期待を抱くのだった。
「今日こそは……チマを反対に巻くのはごめんだわ」
髪をクンモリに結い上げて、深緑のチョゴリを着る姿を想像する。深緑のチョゴリは尚宮の着るものだが承恩尚宮も着ることになっていた。
「髪飾りはつけられないけど、早く髪を結い上げて尚宮としての立場が欲しいわ……」
ヨンエの呟きに化粧係の内人がご機嫌を取るように口を動かす。
「きっと尚宮以上のご身分になれるのでは?内人はこの通り薄化粧でも楊貴妃のようにお美しいですし、殿下のお心も掴んでおりますから」
「口がうまいのね。私は楊貴妃のように豊満ではないわよ?それにあなたは楊貴妃を見たことがあるのかしら。でも、気に入ったわ。私が尚宮になったらあなたを側仕えにしようかしら?」
「それは光栄です!わたくしは香琴と申します!」
ヨンエは小さく微笑んで再び鏡を覗き込んだ。細く無駄な肉がついていない顎に手を当てた。そしてこう思うのであった。
楊貴妃?違う……私は趙飛燕よ……
趙飛燕とは中国の悪女である。しかし、名前の通り体は身軽でずらりとした美女であった。ヨンエはほっそりしているから豊満な楊貴妃とは似ても似つかない。
「ヒャングム、下がって」
「はい。先程のお話、忘れないでくださいね!」
ヒャングムは化粧品を片付けると部屋から退出した。入れ違いに大殿尚宮が入室してきた。ヨンエは立ち上がり、いかにも怯えてそうなふりをした。
「ヨンエ、怖いのか?」
「殿下の前で粗相をしたらと思うと……」
ヨンエは涙をうかべる。
「何回もお渡りがあっただろう。泣くではない!ああ、もう!じれったい。主上殿下はお前を気に入っていらっしゃる。さあ、側殿に行こう」
「はい……」
2人は部屋を出てお渡りが予定されている側殿へと向かった。気づかなかったが、時刻は宵を迎えていた。部屋の至る所で燭台の灯りが揺れている。ひっそりと白銀の光を注ぐ月が夜を寂しいものにしていた。
側殿に入ったヨンエは料理の前に人形のように座って僖宗を待った。いつ僖宗が訪れるのかは分からなかった。ただ、内侍の知らせを待つばかりである。
「誰かいるの!」
ヨンエは微かに人気を感じた。扉の向こうに髪を結い上げた女の影がゆらゆらと映る。ヨンエはその影が誰だかすぐに分かった。