表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/5

駒として

 大王大妃は南尚宮に目配せをした。すると南尚宮は部屋の外に出た。南尚宮が部屋を後にすると大王大妃は茶菓子に手を伸ばした。大王大妃はまんべんの笑みを浮かべている。彼女はスヒョンの回答に満足していたのだ。

「大王大妃媽媽、良い香りですね」

 スヒョンが控えめに聞いた。永壽殿は隅々まで白檀の香りが漂っている。大王大妃は仏教に心を傾けていたから、線香にも使われる白檀の香りを好んでいた。

「心が落ちつくだろう?後宮に長くいると心が乱れて仕方ない。仏様に祈ること、白檀の香りをかぐことが未亡人の救いなのだ」

 すかさず大王大妃の言葉に反応した申氏夫人が言う。

「寂しいことを仰らないでください」

 大王大妃は申氏夫人に微笑みながら返した。

「夫人にはまだ分からない。王室の未亡人は子どもがいないとわびしいものだ。幸い、わたしには先王がいたが……主上には……」

 大王大妃の薄く紅を塗った唇が止まった。スヒョンは唇が動くのを待った。しかし、大王大妃の唇は動かなかった。それでもスヒョンは大王大妃を見つめて言葉が零れるのを待った。申氏夫人はスヒョンの手のひらを軽く叩いて大王大妃から目線を逸らさせた。

 しばらくの静寂のあと大王大妃は口開いた。彼女の表情には明るさはない。むしろ暗く、目は光っていなかった。スヒョンは本能的に大王大妃が何か秘密を語るのではないかと思った。

「主上の母親、貞懿大妃(チョンウィ)を知っているか?」

「貞懿大妃は亡くなったのでは?」

 申氏夫人がきょとんとしながら当たり前のような口ぶりで大王大妃に尋ね返した。すると大王大妃は静かに首を横に振った。そこでスヒョンは僖宗の言葉を思い出した。


 儀嬪媽媽が悪者……もしかして大妃媽媽と関係が?


 スヒョンは身を乗り出して大王大妃の話に耳を傾けた。申氏夫人はそれをはしたないと思いながらも、自分も身を乗り出していた。

「大妃は今、あばら家に住んでいる。どこかは分からない。なんでも密通したらしい……」

 大王大妃は言い淀むがすぐに口を開く。「母親は廃せないと儀嬪が臣下に入れ知恵をして死んだことにしたのだ」

「そんな……」

 スヒョンは一介の側室がここまでの「悪事」を働けることに驚愕した。

「あの方は生きているのか……大妃に連座されて何名かの王族も処罰されて……この話はよそう」

 大王大妃の声は余韻も残さず消えていった。次に訪れたのは無言の重々しい空気だった。大王大妃はそれ以上は告げなかった。スヒョンの胸の中も重々しく、また苦々しい思いで満ちていた。話題を変えるように大王大妃がスヒョンに尋ねた。

「スヒョン、お前はこの後宮で輝きながら生きれるか?」

「大王大妃媽媽、おっしゃっている意味が……」

 大王大妃が淡く笑みを浮かべながらスヒョンをそばに引き寄せて嬉々として彼女に言葉をかけた。

「これからは後宮に生きるのだ。おまえには見込みがあるのだ」

 スヒョンは自分の運命は大王大妃が握っているだと強烈に感じた。そしてスヒョンは身震いをした。それに大王大妃は気づいた。小刻みに震える肩や手を見てスヒョンの運命を動かしたのだと大王大妃は実感する。しかし、そこに罪悪感というものはなく、ただスヒョンをいかに利用するかだけを考えていた。当のスヒョンはまだ身震いをして押し黙っている。

「大王大妃媽媽、スヒョンは混乱しているみたいですわ!」

 申氏夫人が何も言わないスヒョンが不敬にならないように動揺していた。大王大妃は申氏夫人の言葉を遮るように手を挙げた。申氏夫人の内心は生きた心地がしなかった。申氏夫人はスヒョンに視線を送ると彼女はそれに気づいてか細い声を出した。

「大王大妃媽媽……わたくしは……」

 スヒョンは言い淀む。大王大妃は微笑んで彼女に言う。

「安心しろ。身位はそれなりに高いものを与えよう。中殿も親類のお前に目をかけてくれる。スヒョン、お前は主上に近づきたいか?そして愛されたいか?」

 大王大妃の意味深い言葉でスヒョンの瞳が輝いた。スヒョンの胸の奥に押し込まれていた感情が一気に溢れ出てくる。それには僖宗の眼差しもヨンエの美貌も含まれていた。だが、一番は僖宗に愛されたいという感情であった。愛の夢を見るのは悪くないだろう。ただ、僖宗の寵愛は続くのだろうか。きっと数多の側室たちが僖宗への愛情を邪魔するのは予想できた。それでもスヒョンは構わないと気持ちを振り切った。


 私は殿下に愛されたいのよ!


 スヒョンの身震いが収まった。顔に活気が戻り、輝く瞳にもさらに力が加わる。その瞳を大王大妃に向けるとスヒョンは立ち上がり、丁寧にお辞儀をした。大王大妃は内心で細く微笑んだ。


 情に対しては単純な娘だ。しかし、利用するには単純な一面があった方がいい。賢すぎるのは鼻につくからな……


 スヒョンは腹を決めたように力強く言い放った。

「大王大妃媽媽の思うままにわたくしをお使いください」

 しかし、申氏夫人は困惑している。娘が求める「愛」が見かけだけで必ずしも求めているものではないと分かっていたからだ。だが、大王大妃はスヒョンの決意を後押しするように何度も頷いている。申氏夫人の内心は複雑だったが、娘が決めたことだ。娘の意思は大王大妃の意思でもある。大王大妃はスヒョンを座らせた。スヒョンは背筋を伸ばして座った。

 申氏夫人は大王大妃の思惑を感じていたが、いざスヒョンを後宮に送り出すのは気が引けた。なんならスヒョンが嫌われたらいいとすら思った。

 そう思っていても家門のために考えることもある。いくら夫を罵っていても韓家のために最善を尽くす必要もある。ただ、スヒョンが側室になればもっと贅沢ができるのではないかと考えた。歯がゆい思いを抱きながら申氏夫人は茶を口に含んだ。

 そこに南尚宮が内人を2人伴って部屋に戻ってきた。内人は丁重に置かれた宝箱と銀子がお盆を持っている。それを内人は申氏夫人の目の前に静かに差し出した。

「媽媽、これは?」

「礼服を新調するといい。これから側室の母として参内するのだから」

 見たこともない数の銀子の前に申氏夫人は言葉を失った。そしてこの銀子がある種の手切れ金だと感じた。「母娘」としての情を捨てて、今度は「側室と母」という情のない関係を大王大妃は求めているのだと強く思った。申氏夫人にはこれが最善だと考えて銀子を受け取った。そこに下心はなかった。だが、いささか銀子に目が眩んでいる自分がいた。

「大王大妃媽媽、そろそろお勤めのお時間です」

 南尚宮が穏やかに大王大妃に言うと彼女は手短に返事をする。

「分かった。南尚宮、夫人とスヒョンの見送りを頼む。私は仏殿に向かう」

 大王大妃はすっと数珠を手にしながら立ち上がると白檀の香りを身にまとって部屋をあとにする。スヒョンと夫人も立ち上がると南尚宮が先導するように2人の内人と共に永壽殿の出口に向かった。南尚宮は永壽殿の門の前まで見送ってくれた。

「お嬢様、すぐに嘉礼都監が設置されるでしょう」

 南尚宮は声を弾ませてスヒョンに向かって告げる。申氏夫人は気にしない素振りをみせた。

嘉礼都監(カレトガム)?」

 スヒョンは首を傾げる。すると南尚宮が口を開く。

「王室の婚礼を取り仕切る臨時職です。通常、側室は嘉礼(カレ)を挙げませんが……お嬢様は特別でしょう」

 南尚宮は頭を下げて続けた。

「おめでとうございます」

 するとそこにいた尚宮や内人たちも一斉に頭を下げて南尚宮の言葉を復唱した。スヒョンの頬は赤らんだ。恥ずかしさと共に顔が火照りだした。せなかには一筋の汗が流れる。

「頭を下げてください!私はまだ……」

 南尚宮は笑顔を浮かべながら頭を上げた。彼女はですが……っと前置きをして話し出した。

「お嬢様が自ら決めたことでございます。もう側室になったと同じです。大王大妃媽媽のお力添えもございますし、嘉礼を挙げれば箔がつきます」

「自分で……決めたこと……そうね。確かにそうだわ」

 スヒョンは大王大妃の前で言い放った言葉を思い出した。脳裏には僖宗の笑顔が浮かぶ。ときめきを覚えて苦しいくらいだ。スヒョンは気持ちを落ち着かせるようにゆっくりと目をつぶり、息を吐き出した。


 私は大王大妃媽媽の駒よ!


 目を開けるとスヒョンは空を見上げた。鈍色の雲の間から一筋の光が射し込んでいた。木の葉に滴る雨粒がきらきらと星のように光っている。そして水溜まりは鏡のように光を反射していた。雨上がりの土の香りをスヒョンは吸い込んだ。頭上では鳥の羽ばたく音が聴こえてきた。スヒョンは顔を正面に戻すと姿勢を正したまま歩き出した。この一歩はスヒョンが自分の人生を後宮に捧げる意志の現れだった。

 しかし、スヒョンの心は矛盾していた。愛されたい気持ちと大王大妃の駒になるということは反対のものである。大王大妃は自分の真心を利用して何か政敵でも追い払いたいのだろう。それでも愛に生きるなら駒でも構わないとスヒョンは腹を括った。

 物陰でヨンエはスヒョンを見つめていた。ヨンエの瞳にはスヒョンが誰よりも魅力的に映っていた。

「あの方が側室になるなら私への寵愛は?何とかして尚宮にならないと……」

 ヨンエは焦燥感にかられた。そして再びスヒョンに目を向ける。心の奥底からひしひしとどす黒い感情が湧き上がってきた。ヨンエはこの感情の名前を知っていた。この感情の名前は「嫉妬」である。ヨンエは拳を強く握りしめた。爪が食い込むもヨンエにとっては屈辱に耐えている証だと認識する。

「殿下は私のものよ……そうでもしないと今までの屈辱に耐えられない」

 ヨンエは唇を噛んだ。彼女の肩にはしずくが零れていた。それにも気づかないほどヨンエの心は僖宗への執着的な愛を向けていた。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ