お手つきの内人
それと同時に僖宗が儀嬪に言っていた言葉を思い出した。あの柔らかい眼差しを向ける僖宗からは考えられないような冷徹な言葉だ。
「儀嬪媽媽が悪者……?」
スヒョンは首を傾げた。どうして儀嬪が悪者と言われるのかが理解できなかったからである。申氏夫人は呆れたように声をかけた。
「何かおかしな事を考えていないでしょうね?」
申氏夫人の言葉にはいささか棘があった。しかし、スヒョンは理解できない全てを話し出した。
「お母様、殿下が言っていた言葉を覚えている?儀嬪媽媽を悪者……あの優しそうな殿下がそう言ったのよ?」
「黙りなさい!」
申氏夫人が声を荒らげた。そして自分の唇の前で人差し指を立てた。申氏夫人は宮中にはどこにでも耳と目があることを聞かされていた。だから、スヒョンを黙らせたのである。
「スヒョン、宮中では言動に気をつけて!」
「でも……」
「王族の話に首を突っ込むことは許されないわ……」
何か言いたげなスヒョンを宥めるように申氏夫人は彼女の耳元で囁いた。
「儀嬪媽媽は大妃媽媽を……追い出したのよ」
「え!」
スヒョンは申氏夫人にそれ以上の言葉を求めたが、彼女は首を横に振った。そこに衣擦れの音とゆらりと人影が見えた。スヒョンと申氏夫人は居住まいを正した。
「夫人、お嬢様、内人の英愛です。大王大妃媽媽がお呼びでございます」
ヨンエが扉を開けた。するとスヒョンは内心で驚いてしまった。ヨンエがあの見つめていた内人だったからだ。燭台の灯りのもとで見るヨンエも格別に美しかった。華々しい美しさを讃えているというよりは、どこか情熱的な眼差しをしている。
「さあ、スヒョン、行きましょう」
団衫の袖を揺らしながら申氏夫人は立ち上がった。それに続くようにスヒョンも立ち上がる。部屋を出ようとした時だ。何を考えたのか申氏夫人は向き直ると彼女はヨンエに話しかけた。
「内人、この蓮の屏風は絶品ね」
ヨンエが落ちついた口調で答える。
「図画署の熟練の画工に描かせたものです。仏様のご加護を願ったものです」
スヒョンが身を翻すと泥の中に神々しく咲き誇る蓮を描いた屏風が丁重に置いてあった。スヒョンはこのような崇高な屏風を見たことがなかった。というよりも美術品に興味がなく知識も疎かった。
「夫人、お嬢様、こちらの屏風はわたくしども滅多に見ることができません」
「まあ!スヒョン、よく見て!蓮の輪郭に金粉が使われて……花びらの顔料も特上の物だわ!」
申氏夫人は屏風を前に舞い上がっていた。このよく分からない「母親」は美術品に詳しかった。なんなら慧眼の持ち主と言ってもいいほどだ。スヒョンには彼女が喜んでいる理由など分からなかった。
「お母様、早く大王大妃媽媽のところに参りましょう」
「まあ、私としたことが。そうだったわね」
申氏夫人は気まずそうに咳払いをした。2人はヨンエを先頭に大王大妃の部屋を目指した。雨はすっかり止んだが、泥でぬかるんでいた。ヨンエは玉石が敷いてある道を選んで歩いているが、3人のチマの裾は汚れてしまった。
お菓子を運ぶ内人たち、ほうきを片手に談笑する内侍たち、年上の見習い宮女について行く幼い見習い宮女たち。スヒョンはこの広い宮殿には様々な世界と人間模様、そして人生が存在するのだと考えさせられた。また、そこに数々の思想もあれば、思惑もあると薄々と気づいていた。
桃色のチョゴリを着た内人の一団がヨンエを見た瞬間に口を開き出した。それはスヒョンにも聞こえていた。
「見て、ヨンエよ!」
「お手つきになったのに内人扱いなんてね」
お手つきに!
スヒョンの胸がざわつく。僖宗をあの情熱的な眼差しで見つめるヨンエの姿が脳裏に浮かんだ。スヒョンは必死に無心になるようにつとめた。しかし、内人たちの言葉がそれを邪魔する。
「西の長房の内人は直ぐに承恩尚宮になったのにね」
「可哀想。チマを反対に巻いて歩けば殿下が思い出してくれるんじゃない?」
チマを反対に巻くとはお手つきになった内人がすることである。内人がお手つき、承恩を受けると承恩尚宮、特別尚宮と呼ばれて仕事は免除される。しかし、側室ではないため立場は曖昧だった。
ヨンエは内人たちの言葉を気にしていないのか黙って2人を大王大妃の部屋へと案内した。
「澄ましちゃって!」
内人たちはそうヨンエに吐き捨てた。スヒョンは彼女が置かれている立場が自分には想像できないものだと悟った。それと同時に冷静になれたことに気づいた。
ヨンエの悪口で冷静になるって私は最低な女だ……でも、殿下に抱かれたヨンエをどう見ればいいのかしら……
「なんて口の悪い内人だこと」
申氏夫人がそう呟くとヨンエが背中越しに小さく告げる。
「内人の好物は悪口でございます」
すかさず、スヒョンが反応した。
「それにしても酷いわ!」
ヨンエが立ち止まると振り返って小さくて綺麗なお辞儀をした。だが、悔しそうな表情はしていない。
「このような賎しい身分のわたくしを気にかけてくれて感謝します……」
「内人は、内人は、本当にお手つきに?!」
口に出してはいけない禁断の言葉をスヒョンの唇から発してしまった。申氏夫人の表情は険しい視線を感じる。この胸のざわつきの行先を決めておきたかった。
「お嬢様、わたくしは……」
ヨンエは首を縦に振るとうつむいてしまった。しかし、挑むような声音だった。ヨンエの声音でスヒョンの頭の中は真っ白になってしまった。そして僖宗への想いにひびが入った。そのあの眼差しは玻璃のような幻想だった。いずれにしろスヒョンは平然を装うしかできなかった。
「そうなのね。ごめんなさいね……ここで話していたら遅くなるわね。早く大王大妃媽媽のお部屋に行きましょう」
スヒョンのぎこちない口調に申氏夫人は一抹の心配を覚えた。申氏夫人の心配はスヒョンが僖宗に恋心を抱くことであった。後宮には恋心や真心は不要である。むしろ抱いていては後宮では大きな障害であった。スヒョンは黙りこくってとぼとぼと歩いている。申氏夫人も分かるくらい心ここに在らずの状態であった。
「スヒョン、どうしたの?」
申氏夫人は優しい声音でスヒョンに聞いた。
「……」
返答が無いことに申氏夫人は少し怒りを覚えた。
「スヒョン!だらしない歩き方しないで」
「お母様?!」
スヒョンは申氏夫人の言葉で我に返った。そしてほつれていた髪を耳にかけた。花をかたどったコチと呼ばれるかんざしが光った。
その光は静けさに消えていった。目の前に厳かにそびえる大王大妃の住まう「永壽殿」が現れた。
立派な額に「永壽殿」と達筆に書かれている。庭先には花瓶が何個も置いてあり、静寂さの中にも華やかさも存在していた。永壽殿は大妃や大王大妃が住む格式高い部屋であり、特に大王大妃が住むことが多かった。大妃はというと「慈慶殿」という、こちらも格式高い部屋があてがわれた。
3人の目の前に柔和な笑みを浮か深緑のチョゴリを身にまとった尚宮が歩み寄ってきた。
「どうぞ……わたくしは下がります」
ヨンエはその尚宮に頭を優美に下げると後ずさりしながら、その場を離れた。
「夫人、お嬢様、お待ちしておりました」
「随分と待たせてしまったかしら?」
心配そうに申氏夫人が尚宮に尋ねた。すると尚宮はいいえっと穏やかに答えた。
「大王大妃媽媽はお昼寝をしておりました。ちょうど、お目覚めになった頃です」
申氏夫人は安堵のため息をこぼした。スヒョンは胸の高まりを覚えていた。つい最近までこの国の政治を動かしていた大王大妃に会うことに一瞬の恐怖を感じていた。そして大王大妃の傍に僖宗がいるのではないかと淡い期待も混じっていた。
2人は尚宮と共に永壽殿へと入っていった。部屋がいくつもあり、扉もいくつもある。その一つ一つ頭を下げた内人や尚宮が傍で控えていた。その様子はまるで木のようである。この木のような微動にしない内人や尚宮は至密内人、至密尚宮と呼ばれる。スヒョンはその至密内人、至密尚宮らの間を通りながら大王大妃の部屋に通された。
先程の尚宮が部屋の中にいる大王大妃に声をかける。
「大王大妃媽媽、夫人とお嬢様ががまいりました」
「南尚宮、通しなさい」
南尚宮が扉を開けると高く結い上げた髪にトリジャム、金で出来た龍のピニョンを挿した大王大妃が慈愛に満ち溢れた穏やかな眼差しとをこちらに向けた。
「礼は良いからお座りなさい」
2人は素直に従った。そこに生果房からお菓子が届いた。
「夫人、あなたから見たスヒョンはどうかしら」
いきなり大王大妃が尋ねた。にわかに部屋の空気が変わる。
「少し危ないところがございます」
「それくらいがいいわ」
大王大妃は用意された茶を飲んだ。スヒョンも真似するように茶を飲んだ。後から渋みの来る緑茶であった。
今度はスヒョンに大王大妃は尋ねた。
「スヒョン、お前が木を植えるなら何を植える?」
突然の質問にスヒョンは直ぐに答えられなかったが、一呼吸をおいてから答えた。
「合歓です」
大王大妃は興味津々でスヒョンの言葉を待っている。
「花は薬になります。また匂い袋にいれれば芳しいかと……」
「では、この世で一番の虚しさは?」
「時間でございます。咲き誇る牡丹や芍薬でも時には敵いません。時間と共に枯れてしまいます」
「あははは!面白い事を言う娘だ!」
大王大妃は声を上げて笑った。どうやらスヒョンは大王大妃に気にいられたようだ。大王大妃はスヒョンに贈り物を用意させて入内の嫁荷にするように申氏夫人へ言いつつけた。