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始まりの一目惚れ

 国政は慈寧大王大妃(チャニョン)の垂簾聴政が終わり、僖宗(フィジョン)の時代が始まった。

 僖宗は先王の善政を受けついで、この国は全盛期を迎えようとしていた。飢えもなく、争いもない日々を民は享受していた。そしてこの繁栄の全て僖宗と慈寧大王大妃のお陰であると合言葉のように言い合った。


 牡丹が咲き誇り、後宮たちの色とりどりのチマが風に翻る。その中に黄色のチョゴリと赤いチマを身にまとった娘が歩いていた。タウンモリと呼ばれる三つ編みが揺れる。彼女は都承旨の娘・16歳の秀賢(スヒョン)だ。今日は慈寧大王大妃に呼ばれて母親の申氏夫人(シン)と後宮に参内したのである。申氏夫人には自分たちが慈寧大王大妃に呼ばれた理由が薄々と分かっていた。

 慈寧大王大妃が住む後宮は豪華絢爛の世界だ。後宮には数多の女性が生活している。光を浴びる者、陰で涙する者に別れる。そのような後宮の頂点に慈寧大王大妃、そして中殿(チュンジョン)こと王妃尹氏(ユン)がいた。しかし、厄介なことに大王大妃の夫・信祖の側室・儀嬪(ウィビン)もいるためか後宮の序列は複雑になっている。儀嬪は大王大妃に許された後宮の1人である。

 おまけに故暎宗(ヨンジョン)の妃嬪もいる。

 その複雑な序列の中で中殿は内命婦の長として働き回っている。そんな中殿は良妻賢母、慎ましく、穏やかで嫉妬も見せない……。しかし僖宗は彼女の性格に甘えて数多の側室を持った。僖宗のことを閨は闇っと呼ぶ者がいたがこの全盛期においてはそのような陰口は微々たるものであった。

 スヒョンと母の申氏夫人は芙蓉が咲き乱れる中庭へと案内された。芙蓉をはじめとする花たちの色彩がスヒョンには眩しいくらいである。スヒョンは偶然、咲いていた芙蓉をこっそり積んで香袋にしまった。

 花といえば傍に控えている内人(ナイン)はみな花のように美しかった。百合のような清らかさ、菊のような慎ましさを彼女たちは全て兼ね備えている。

 特にスヒョンが美しいと思ったのは細眉の内人であった。切れ長の目、淡い桃色の頬、血色のよい唇は今まで会ってきた誰よりも可憐であり、なまめかしいものがあった。

 スヒョンが彼女に見とれていると尚宮(サングウ)の1人が現れて福綏堂(ホクスダン)へ案内しますと小声で言ってきた。申氏夫人の表情が幾分、暗くなった。それにスヒョンは気づかなかった。

「私たちは大王大妃媽媽に会いに来たのですよ?福綏堂は儀嬪媽媽のお部屋ではありませんか?」

 申氏夫人は尚宮に静かに尋ねる。

「儀嬪媽媽のご命令でして……」

 尚宮はうつむきながら申氏夫人に答えた。

「待ってください。私たちは大王大妃媽媽に呼ばれて……儀嬪媽媽は側室よ?媽媽任(ママ二ム)、もう一度、確認してください」

 スヒョンが尚宮に確認を取るように尋ねた。スヒョンは側室の儀嬪が正室の大王大妃を蔑ろにしているような気がした。大王大妃を差し置いて何かするのではないかという気すらもした。その話し声を耳にした内人たちがひそひそと話し始める。

「序列では大王大妃媽媽よね?」

 内人の1人が囁く。もう1人も囁く。

「儀嬪媽媽の性格を考えたらねぇ」

 それに気づいた申氏夫人は内人たちを睨みつけた。内人は縮こまってその場を後にした。申氏夫人はその勢いのまま口を開いた。

「スヒョン、スヒョン!」

「お母さま、いかがなさいましたか?」

 スヒョンは顔を慌てて申氏夫人の方に向けて言葉を発した。申氏夫人はスヒョンの様子を見てため息をついた。彼女はあまりにも無謀だと申氏夫人は思った。正五品の尚宮の高級女官に無礼な口ぶりだと申氏夫人は肝を冷やした。しかし、中殿のことを思い出した。

「大王大妃媽媽の考えていることは分かるような気はするわ。スヒョンが入内しても、あのお優しい中殿媽媽だから大切にされるはず」

 申氏夫人は静かに呟いた。それはスヒョンには聞こえていなかった。


 スヒョン嬢を主上の後宮に……!


 大王大妃は中殿を可愛がるが彼女には息子が生まれなかった。僖宗との間には1人娘・寿安公主(スアン)がいるだけであった。お気に入りの貴人朴氏(パク)との間には子どもはなく、地味で目立たない昭儀閔氏(ミン)との間にはひょうきんな陽平君(ヤンピョン)、のんびり屋の陽安君(ヤンアン)、大人しい陽興君(ヤンフン)の3人の庶子がいる。朴貴人は牡丹とか明珠とか、このよの美しさを詰め込んだ後宮であった。だが、性格は目立ちたがり屋で嫉妬深い。それに閔昭儀は対抗しようにも3人の王子は詩経を諳んじることが難しい出来が悪く、僖宗には何か物足りなかった。


 男子は聡明であれ!


 それが僖宗の願いである。嫡庶を隔てずこのように考えられるのは彼が新しい何かを生み出そうとしているからだった。儒教が根幹の国に新しい風を吹きこもうと僖宗は庶子らにも学問を進めていたのだ。

 だが、大王大妃としては中殿に男子を産んでもらいたい。しかし中殿はここ何年も懐妊の兆しは全くなかった。大王大妃は危機感を覚えて、中殿と親戚にあたるスヒョンに白羽の矢を立てたのである。

 スヒョンは呼ばれた理由がそうとは知らず、後宮の煌びやかな全てに目を輝かせていた。そこに好奇心も相まって心が弾んでいる。

 申氏夫人がそれらを消しさるような鋭い口調でスヒョンに告げる。

「儀嬪媽媽の部屋へ向かうわよ」

「お母様、まずは大王大妃媽媽が先だわ」

 申氏夫人は目を丸くする。彼女は驚いているようだった。

「スヒョン、あなた儀嬪媽媽がお部屋に……」

「儀嬪媽媽が尊くても大王大妃媽媽はご正室よ?」

 スヒョンの言葉に申氏夫人はぐうの音も出なかった。案内を伝えに来た尚宮は慌てる様子はなく、じっと動かずに2人の会話を聞いていた。

「スヒョン嬢、よく言った」

 真紅の龍袍が目の前に現れた。龍袍を身に纏えるのはこの国では1人しかいない。

「夫人、お嬢様、殿下でございます」

 尚宮の言葉を聞いた2人は同時に頭を下げた。スヒョンは横目で深緑の団衫が地にこするくらい頭を下げる母を見て彼女にも頭が上がらない人物がいるのだと実感した。申氏夫人が着ている緩やかな団衫(タンサム)は士大夫の妻の礼服であった。

 スヒョンは母親の姿に驚いた。申氏夫人は夫である韓茂(ハン・ボ)をしりに敷いており、気が強くて夫を罵るのは当たり前であった。そして浪費家で欲しいものは何でも買っていたとスヒョンは思い返した。

 そして子どもには厳しかったり、優しかったりとスヒョンにはよく分からない母親であった。スヒョンはその母親が好きでもなければ嫌いでもなかった。ただ、自分を産んだ「母親」という感覚だった。

 スヒョンはその母親の様子をみて笑いそうになったが、目の前にいる僖宗に誤解されないように必死で堪えていた。

「夫人、スヒョン嬢、頭を上げてくれ」

 僖宗は明るく言った。

「はい」

 スヒョンが頭をあげるとそこにいたのは色白で輝きを宿した瞳、鼻筋の通った顔、そして柔らかな笑みが自分を見つめている。スヒョンは僖宗の眼差しに射抜かれた。

 主上殿下に名前を呼ばれたい、手を握られたいと言う想いに駆られた。スヒョンは恥じらいから頬を赤らめる。

 

 この方にお仕えできたら……でも、ずっとお傍にはいれない。殿下を慕う方は何人もいる……私の気持ちは叶わない想いなのかしら……


 同じように僖宗も白玉のような肌、薔薇色の唇、艶やかな黒髪、あどけない表情を浮かべる姿は可憐であると直ぐにスヒョンを気に入った。僖宗は彼女を心の奥から欲しいと思ってしまった。このような気持ちになったのはいつぶりだろうと考えてしまう。

 その様子を尚宮たちは微笑ましく眺めていた。スヒョンは先程の美しい内人たちがいる世界に何も取り柄のない自分が割り込んでもいつかは埋もれるだけと感じる。あの見とれた内人のような美女と寵愛を争うことになったら、自分は負けるだろう。スヒョンは暗くなった表情を見せないように俯いてしまった。

 そこに尚宮たちの一団が現れた。茉莉花の香りを漂わせながら現れたのは儀嬪である。儀嬪の煌びやかな団衫には「寿」や「福」の刺繍が入っている。クンモリに結い上げた髪は大ぶりの真珠を使ったトルジャムを着けている。トルジャムについたバネ付きの蝶はゆらゆらと飛んでいるかのようだった。

「主上、私の名前を使ってこの母娘を試しましたね」

 儀嬪が僖宗に苛立ちながら詰め寄った。

「儀嬪、あなたには関係ありません」

 僖宗は蔑むような瞳で儀嬪を見つめた。儀嬪はそれに対抗するように彼を睨みつけた。

「そうやって主上は私を悪者になさるのですか?」

「儀嬪が悪者だなんて……失礼した。まあ、私の中では悪者ですね。母上をいびりたおしたあげく行宮に移したのは誰ですか?」

 僖宗は冷静で低く冷たい声で儀嬪に問いかけた。

「人聞きの悪いことをおっしゃらないで!」

 儀嬪は明らかに苛立ちを見せている。スヒョンと申氏夫人には王族の秘密にしておきたい会話をまじかで聞いて良いのかと不安なり身を寄せあった。

 2人の不安を知らない儀嬪と僖宗は静かに対峙している。そこに木の葉を揺らす風が強い吹いてきた。空を見上げると黒い雲が流れてきている。内侍の1人が大声で叫んだ。

「雨が降りますぞ!」

 内侍(ネシ)の声が完全に消えた頃に彼女は憎たらしいほどの微笑を浮かべて僖宗に向かって告げた。

「主上。今度、ゆっくり話し合いましょう」

 儀嬪はどこか悔しげにその場を後にした。すると空からポツリ、ポツリと雨が落ちてきた。その刹那、雨は大雨になり僖宗は尚宮にスヒョンと申氏夫人の着替えを頼むと僖宗は便殿に内侍と大殿尚宮(てじょさんぐう)らに囲まれて去って行った。

 スヒョンと申氏夫人は尚宮の使う部屋に通されて新しい団衫を手渡された。水色の団衫に花紺青のチョゴリを着た申氏夫人はスヒョンに尋ねた。

「スヒョン、儀嬪媽媽が仰ってた「試す」ってなんの事かしら?」

 スヒョンは桜色のチマと淡い緑色のチョゴリに着替えながら申氏夫人に自分の考えを述べる。

「儀嬪媽媽が呼んでいると敢えて言わせて、本当に行くかどうかだと思うの。正室の大王大妃媽媽がいながら命令を聞くか序列を大事にするかを試したかったのではないかしら?」

 申氏夫人はびっくりした顔をしている。ここまで考えを述べたスヒョンだったが正直、自分が正解を言ったのかは分からなかった。

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