第1話「いつもの1日が好き、なはずなんだけど...」
セレスティア王国科学技術省の戦略AIプロジェクトでAffecticsの研究開発者となった澪。
その澪が普通の高校生から引きこもりになる迄のフラッシュ・バック ストーリー。
澪はセレスティア王立高校の2年生。
ある朝。
スマホのアラームが三回目のスヌーズを鳴らし、枕元で震えて止む。
(あと五分……いや三分……)
指先で画面を伏せた瞬間、階下から母の声。
「澪ー! 早くしなさい! 冷めちゃうでしょう!」
「はーい!」
返事は元気に、体はだるく。制服の襟を直して鏡を見る。昨日のまま結んだ三つ編みは片方だけゆるんでいた。直して、ほどいて、もう一度。
(完璧じゃなくても、“普通”に見えればいい)
キッチンにはトーストの匂い。母はエプロンの紐を結び直しながら、急ぎ足でコーヒーをすすっている。
「もっと早く起きなさいって言ってるでしょ」
「うん、ごめん」
(“ごめん”は魔法。角が立たない便利な言葉)
父の席は空。今日も早出。マグカップの底にコーヒーの跡が輪になって残っている。兄の席には紙切れ。〈朝練〉の文字。王立セレスティア工科大学に通う兄は、家にいる時間が短い。
(格好いいよね、ちょっと。……ちょっとだけ)
トーストの端をかじる。バターが舌に溶けた瞬間、母がまた口を開いた。
「そういえば進路希望、まだ空欄のままだったじゃない。締め切り来週よ」
「うん。……考えてる」
「“考えてる”は考えてないのと同じよ」
(そういう時代、もう終わったんだよ、って言ったら怒られるんだよな〜)
玄関で靴紐を結んでいると、ちょうど兄が朝のランニングから戻ってきた。
「お、澪。行ってらっしゃい」
「行ってきます」
「外に丸聞こえだったぞ、進路希望がどうのこうのって」
「もう、チョー憂鬱。ただ毎日フツーに生きたい。それが私の進路」
「ははっ、ま、焦んな。目標って後から生えるもんだし。好きなこと、ゆっくり探せばいい」
(“ゆっくり”って言葉、好き。お兄ちゃん、やっぱり優しい)
ドアの外の光はまだ柔らかい。
(おおぉ〜、いい天気!)
ランドセルじゃないけど、足取りは小学生の朝みたいに軽くなる。
通学路。制服の群れが川みたいに流れていく。信号待ちで、並んだスニーカーが一斉に前へ。
(同じリズム、同じ足音。安心する。自分の音が消えるから)
校門をくぐると、クラスメイトの笑い声がガラスに跳ね返って広がる。席に荷物を置いた途端、隣の席のリンが振り向いた。
「澪、もうカフェテリアの新作パフェ食べた? この世の終わりみたいに甘かった」
「どんな終わり?」
「幸せの終わり!」
「じゃあ始まりでもあるね」
笑いながら、差し出されたスマホに目を落とす。ピントの合ったホイップ、わざとらしい虹色のシュガー。
(“映え”って便利な言葉。映えさえすれば中身は二の次。……いや、今は楽しもう)
席替えで近くなったカナが身を乗り出す。
「ねえ聞いて、ウチの彼、昨日送ってくれてさー」
「いいなー」「ずるいー」
合唱。私も「わー」と声を合わせる。
(彼氏か。……面倒くさそう、って言ったら嫌な子かな。ううん、言わない)
窓の外、体育館の屋根に薄い雲が流れていく。先生が入ってきて、日直が号令をかける。みんなが立って、座って、筆箱が開く音。
(儀式。毎朝の小さな儀式。安心する。決まり通りは、怖くない)
四限目が終わると、私たちはカフェテリアへ。冷蔵ケースに見たことのないプリンがぷるぷる震えている。
「これさ、今日限定なんだって」
「釣られるぅ〜」
「誰に?」
「プリンに!」
他愛のない笑い。スプーンで掬ったカスタードが舌の上で崩れていく。
(甘い。安全。なにも起きない味)
「そういえばさ、澪ってさ、彼氏いない歴は?」
「えっ、なにその歴史」
「歴史は長くなるほど価値が出るんだよ?」
「骨董品かな」
笑いを返す。
(彼氏がいない=欠けてる、って感じ。……欠けてるの、そんなに悪い? 丸くなるのは簡単だけど、丸いと転がって止まらない)
グループの誰かがSNSの新機能の話を始める。ストーリーのエフェクトが増えたとか、AIが勝手にBGMを付けてくれるとか。
「しゃべるだけで字幕つくの便利すぎ!」
「マジで未来!」
(未来、か。……“未来”はみんなの言葉。私の言葉じゃない)
でも、笑って相槌を打つ。
(“同じ”でいるの、嫌いじゃない。だって波風、立たない)
放課後。校門の近くでミキたちと手を振って別れる。
「また明日ねー!」
「また」
(また、って約束。明日も同じ。たぶん安心、たぶん少しだけ退屈)
商店街の奥に入る。舗道のレンガが欠けているところを、つい避けて歩く癖。角を二つ曲がると、古い木の看板が見える。“ルーペ堂”。ドアを開けると、鈴がチリンと鳴った。山鳴りみたいに小さな音。
「いらっしゃい」
店主のおじさんは、新聞より古そうな針金フレームの眼鏡を外して、私に小さく会釈する。
この店の匂いが好きだ。古い紙と、磨かれた金属と、乾いた木の匂い。息をするだけで、時間を飲み込んでいる気がする。
(ここだけ季節が遅れてる。世界がゆっくり)
棚一段目の端。前から気になっていた真鍮のキーホルダーを手に取る。円形で、縁に小さな星の刻印。
「お、目が高いね」
店主がカウンター越しに笑う。
「昔のドミトリーのタグだよ。番号が消えてるけど、手触りがいい」
「……ほんとだ。冷たいけど、すぐぬくもる」
(人間の熱って、こんなにすぐ移るんだ)
隣の箱には、木目のコースター。細い年輪が積み木みたいに並んでいて、中心にだけ濃い影。
(丸い年輪。私の“歴史”も、こんなふうに静かに増えればいい)
「今日も見てくだけかい?」
「ううん、これください」
私はキーホルダーを置いた。財布から小銭を出す。硬貨の触れる音が乾いた空気に散る。
「ありがとう。お嬢ちゃんは、ほんと古いものが好きだね。少しだけど安くしとくよ」
「ホント!? ありがとうございます!」
(“古い”って、褒め言葉)
紙袋を受け取って、店を出る。ドアの鈴がもう一度鳴る。夕暮れの風が頬に触れて、紙袋の角がカサリと鳴った。
(今日もいい日。なにも起きない、いい日)
家に戻ると、母の声がテレビのニュースの音に混じっていた。炒め物の匂い。
「お帰り。手洗ってきて」
「うん」
夕食の席。テーブルに並ぶのは、甘辛の鶏肉とドリア、パンプキンスープ。スープボールの湯気が眼鏡を曇らせて、母が笑う。
「明日、三者面談の紙持っていきなさいよ」
「うん」
「将来の目標、ホントに何もないの?」
「……今は、ない」
「ないじゃ困るのよ」
(困るの、誰? 私? お母さん? 世界?)
箸を置く音が少し大きくなったとき、兄が洗面所から戻ってきた。髪をタオルで乱暴に拭きながら席につく。
「うまそう」
「手、拭いてから」
「拭いてる拭いてる」
兄はドリアをかき込みながら、私を横目で見た。
「面談の紙の話?」
「うん」
「母さん、澪は澪だからさ」
「またあなたはそうやって……」
「俺だってさ、最初からアカデミー一本だったわけじゃないよ。走ってみたら楽しくて、続けてたら“目標っぽいもの”が勝手に後ろからついてきたって感じ」
「勝手に、ねえ」
「だからさ、澪。いま楽しいこと、ちゃんと楽しんどけ」
(“楽しいこと”。いま、楽しい。友達。スイーツ。アンティーク。……充分)
パンプキンスープを一口。程よい甘さが口に広がる。
(ずっとこのままならいいのに。堂々と言えないけど、本音はそう)
テレビのニュースが、有名人の結婚を報じていた。SNSの祝福コメントが流れる。母がそれを眺めながら、ぽつりと言う。
「時代、変わったわね」
(うん。たぶん、もっと変わる。……その“もっと”が、何かはまだ知らないけど)
自室。ベッドに仰向け。天井の小さな亀裂が、夜の川みたいに見える。バッグから紙袋を取り出し、キーホルダーを掌にのせた。
小さな星の刻印が、指の腹に触れる。
(今日、私が手に入れた星。番号の消えたタグ。持ち主を失った鍵。……でも、可愛い)
机の上には、集めた小物たち。木のコースター、色褪せた栞、インクの切れた万年筆。
(古いものは、黙ってる。何も要求してこない。そこが好き。私も、なるべく静かにいたい)
スマホが震えて、グループチャットの通知が灯る。〈明日、限定パフェ第二弾いく人〜〉
親指が“行く”のスタンプを押す。
(行く。行ける。普通の私。普通の明日)
電気を消す。部屋が暗くなると、窓の外の街灯の光がカーテンを透けて、壁に薄い模様を作った。
(光の筋が、流れ星みたい)
(願いごと、ある?)
(――ない。今は、ない。いらない)
まぶたの裏で、昼間のプリンが揺れる。友達の笑い声。母のため息。兄の「ゆっくり」。音たちが遠ざかっていく。
(明日も、同じ。大丈夫。同じで、いい)
――でも......何故ため息が漏れるんだろう。




