聴力を失って自信をなくした私に貴方は光をくれた
はじめまして。お読みくださってありがとうございます。
この作品は、「でっかい愛」をテーマにした、
静かで切なく、でもどこかあたたかい恋のお話です。
音のない世界で、それでも伝えたい想い。
ぜひ、ふたりの時間を見守っていただけたら嬉しいです。
第一章 音のない森で、色が揺れた日
りおはその日も、いつものように施設の門を出て、裏手に広がる古い森へと足を向けた。
静かな森。いや、りおの世界はいつだって静かだった。
耳に届くはずのざわめきも、鳥のさえずりも、風の声も──もう、とっくに失ってしまった。
だけど、この森には「音がないこと」にすら、安心できる何かがあった。
木漏れ日が差し込むその奥で、色だけが揺れていた。
(今日は……、空がやさしい色)
りおは、森の奥にある大きな倒木に腰をおろした。
膝の上には、ノートとペン。それが、彼女にとっての言葉だった。
そこに、一歩だけ──ふしぎな「気配」が揺れた。
(……?)
風でもない。動物でもない。けれど、木々のすき間に立っている、だれかの影。
りおは息を止めた。
黒いジャケットを着たその男は、まるで森の一部のように、そこに「いた」。
男は、りおの存在に気づいたようだったが、何も言わずにゆっくりと手を挙げた。
軽く、ただ、手のひらをこちらに向けて──
りおも反射的に、同じように手を挙げた。
その瞬間。
胸の奥が、あたたかくなった。
(……なんで?)
言葉はない。声もない。けれど、その人の存在だけで、どこか心の奥に「色」が走った。
りおの世界に、初めて“音ではない”なにかが響いたような──そんな感覚。
男は静かに歩いて近づいてくると、ポケットから紙とペンを取り出し、地面にしゃがんで一言だけ書いた。
> こんにちは。
りおは、まばたきをひとつしてから、ノートに文字を返す。
> こんにちは。
> ……あなた、だれ?
男はすこしだけ笑った。けれどその笑顔は、どこかさびしげだった。
そして、また書く。
> ただの通りすがり。森を歩いていただけ。
りおは首を傾げたが、それ以上は聞けなかった。
聞こえないだけじゃない。なんだか、そっとしておかなきゃいけない気がした。
でも。
> ここ、すきなんです。音がないから、ここにくると……心が落ち着くんです。
彼女がそう書くと、男はゆっくりとうなずいて、なにか考え込むように目を伏せた。
そして一言──
今度は、口を動かした。
りおには、声は届かない。
でも、その口の動きは、ゆっくりだった。
「わかるよ」
りおの胸に、あたたかなものが落ちてきた。
──その唇の動きが伝えた言葉に、りおは思わず目をそらした。
うれしいのに、まっすぐ見つめ返すには少しだけ、心が照れていた。
「……」
男はなにも言わず、木漏れ日の中に立ち尽くした。
風が吹いて、枝葉がそよぐ。りおの長い黒髪がふわりと揺れる。
再びペンを取ったりおは、ノートにそっと書いた。
> あなたの名前、聞いてもいい?
男は少し驚いたように眉を上げたが、すぐにやわらかく笑って──また、紙に書いた。
> 蒼真
> りお、です。
二人は、それだけを交わしてしばらく黙っていた。
だけどその沈黙は、どこか心地よかった。誰かと一緒にいて、こんなふうに静かなままでいられるのは、りおにとってはじめてだった。
そして、ふと蒼真が目を細めて空を仰ぐ。
その仕草に釣られるように、りおも空を見た。
──やさしい青。
木々の隙間から差す光が、二人のあいだに影と輝きを作っていた。
蒼真がポケットから、また一枚の紙を差し出した。
> ここ、よく来るの?
りおは首を縦に振って、ノートに書く。
> 週に三回くらい。学校が終わったら、ここに来て、ぼーっとしてる。
> 人がいないから、安心できる場所。
蒼真はうなずいたあと、小さく微笑んだ。
そして──
「また、来てもいい?」
口元がそう言った。
りおの胸の中に、ぽっと灯るものがあった。
それは言葉にも、音にもならない。でも、確かに、なにかが始まろうとしている。
> うん、……来て。
それからというもの、森での「二人だけの時間」がりおの日常になっていった。
蒼真は口数が少ない。だけど、伝えようとしてくれる。
りおも、ノートとペンを忘れず持ち歩くようになった。
時にはおにぎりを持ってきて、並んで食べる日もあった。
時には葉っぱで手話を作って笑い合うこともあった。
ある日。
蒼真がポケットから、小さな包みを取り出した。
それは──音のしない、小さな鈴。
音の代わりに、太陽の光を反射してきらきらと輝く、透明なガラス玉がついていた。
> りおの耳には音は届かないけど、これなら“きれい”が届くと思った。
りおは、両手でそれを包み込んだ。
胸の奥に、あたたかい泉が流れた。
──こんなふうに、誰かと笑い合う未来が、自分にもあったんだ。
あの森に、風が吹くたび、りおの胸にふと蘇るのは、かつて失った音たちだった。
──あの日、世界は、無音になった。
静かな病院の待合室。冷たくて白い光。
その奥のドアが開いた瞬間、すべてが崩れた。
事故だった。
いや──事故と、言われた。
だけどりおには、あの音が耳に焼き付いていた。
ブレーキ音。悲鳴。割れるガラス。
──そして、その直後、すべてが、沈黙に変わった。
施設に来た当初、りおは誰とも話さなかった。
小さな布団。並ぶベッド。話しかけてくる子どもたち。
でも、声が聞こえない。
いや、声が聞こえないふりをしていたのかもしれない。
誰とも目を合わせたくなかった。
怖かった。信じることも、甘えることも、また失うことも。
そんなりおの中に唯一生きていたのは、両親の残した記憶。
そして、夢の中で時折現れる、白い光に包まれた“男の人”。
──あのとき、あなたが、私を抱きしめてくれた。
──でも、名前も知らない。顔もはっきり思い出せない。
夢と現実のあわいで、その人のぬくもりだけが、心の奥に残っていた。
中学生になったある春のことだった。
校庭に咲いた一本の桜の木の下で、彼に再会した。
「……!」
蒼真──あの森で出会った青年が、校門の外に立っていた。
警察官の制服。真っ直ぐな目。
少しだけ、年上に見えるその人が、やわらかく微笑んでいた。
「りお……久しぶりだね」
その唇の動きが、かすかに揺れた風に重なった。
──久しぶり?
心が、ざわめいた。胸の奥が騒ぎ始める。
──どこかで、知ってる。
けれど、言葉は出てこない。
その日の夜、施設の管理員から聞かされた。
> 「蒼真さんはね……君が保護されたあの日、現場にいた刑事さんなんだよ」
> 「誰よりも君のことを気にしてた。だから、こうして──面談の申請をしてくれたんだ」
それから、蒼真との面談がはじまった。
週に一度。
ほんの数分の、静かな対話。
「……今週は、どうだった?」
その問いかけに、りおはノートをゆっくり広げる。
> 新学期。ちょっとだけ、新しい友だちができた。
> 名前は、花音。声が大きくて、笑い声がすき。
蒼真はうれしそうに目を細めた。
「りおが笑ってくれるのが、一番うれしいよ」
それを見て、りおも、こくんと小さくうなずいた。
言葉はいらなかった。
この時間、この沈黙の中に、あたたかいものが確かにあった。
ある日、面談の終わり際。蒼真がふと口にした。
「……りお、来月から、里親体験の話が出ると思う」
胸が、ぎゅっと締めつけられた。
里親──新しい家。新しい家族。
また、“誰かを好きになるかもしれない怖さ”が蘇る。
──また、奪われるかもしれない。
りおは、ノートにこう書いた。
> ……それが、あなたなら、いいな。
言葉を見た瞬間、蒼真は、そっと目を閉じて深く息をついた。
「ありがとう。……でも、焦らなくていい。ゆっくりでいいから」
その声は聞こえない。
でも、瞳と表情で伝わる“想い”が、確かにりおの中に届いていた。
第三章 静かに始まる、ふたりの暮らし
週末の午後、施設の玄関前に、淡いグレーの車が停まっていた。
助手席のドアが静かに開き、りおは一歩ずつ足を踏み出す。少しだけ強張った表情。その横に立つ蒼真は、何も言わず、そっと彼女の歩調に合わせた。
「大丈夫。無理に笑わなくていい」
そう口の形だけで伝えると、りおはふと彼を見上げ、ほんのわずかに頷いた。
今日から、仮同居。三ヶ月間の、試しの暮らし。
部屋は広くはなかったが、きれいに整っていた。木の香りのするフローリング。観葉植物。壁には、いくつかの風景写真。
「ここが、りおの部屋」
蒼真がそう言って扉を開けると、小さなベッドと、机、そして窓際に絵本が何冊か並んだ棚があった。
> ……やさしい部屋。
りおはノートにそう書き、蒼真に見せた。
「うん。りおに来てもらうって決まってから、少しずつ揃えたんだ」
彼の声は届かない。でも、笑顔から伝わる気持ちがあった。りおは指でそっとベッドの端を撫でた。ふかふかで、あたたかかった。
初日の夜は、なんとなく緊張がとけなかった。食卓に並ぶ二人分の夕食。蒼真は手話を交えながら話しかけてくる。
「好き嫌い、あったら教えてね」
りおは少し考え、ノートに書く。
> ピーマンと、セロリが苦手。でも、がんばる。
蒼真は笑った。
「がんばらなくていいよ。嫌いなものは、別の味にしてみようか」
> ……あじ、変わる?
「変わるよ。セロリはね、ミネストローネに入れると、ちょっとやわらかくなるし、風味も控えめになる」
> ……ふしぎ。
> ……でも、たのしみ。
その言葉に、蒼真の目がふっと細くなった。
日曜日の午後。
蒼真はりおを連れて、近くの公園まで散歩に出かけた。桜の木の下、春の匂いがゆっくりと漂う。
「ほら、あのベンチ。最初に会った場所だよ」
> ……おぼえてる。わたし、泣いてた。
「うん。君、泣いてた。だけど……その涙が、とてもまっすぐで、きれいだった」
りおは少しだけ赤くなって、顔を伏せた。
> そんなこと、言わないで。
> はずかしい。
「ごめん。でも、ほんとのこと」
風が通り抜けたあと、沈黙が訪れた。でも、それは居心地の悪い沈黙ではなくて──
隣に誰かがいるという、確かな“静けさ”。
数日後の夕暮れ。
夕食の支度をしていた蒼真が、ふと問いかける。
「りお、耳のこと……聞いてもいい?」
少し間を置いて、りおはノートにゆっくりと書く。
> 小さいころの事故。音が、急に消えた。
> でも、夢では聞こえるの。不思議だよね。
蒼真は真剣な顔でそれを読んだあと、静かにうなずいた。
「きっと、それは君の心が音を覚えているから」
> ……心って、おとを、おぼえる?
「うん。記憶にも、感情にも、音は残るんだよ。たとえば……」
蒼真は少し恥ずかしそうに笑いながら、自分の胸をぽんと叩いた。
「ここに、君の声が残ってる」
その言葉に、りおは思わず目を見開いた。
そして、ゆっくりと、ノートにひとこと。
> ……わたしも。
その夜、りおは夢を見た。
音のある世界。
笑い声。
名前を呼ばれる音。
風のささやき。
蒼真の、やさしい声──
目が覚めたとき、涙が枕を濡らしていた。けれど、その涙は、なぜか温かかった。
第四章 心に住む、小さな奇跡
その朝、りおは静かに目を覚ました。
カーテンの隙間から、柔らかい光が差し込んでくる。
白くて静かな空気。どこか懐かしい匂いがする。
耳は聞こえない。でも、何かが聞こえるような気がした。
そっと体を起こすと、部屋の扉がノックされた。
コンコン。
──朝だよ、の合図。
扉を開けると、蒼真がマグカップを二つ、トレイに乗せて立っていた。
一つはりおの大好きなホットミルク、もう一つは彼のブラックコーヒー。
「おはよう。……よく眠れた?」
りおは小さくうなずく。
蒼真は、少しほっとしたような顔で、笑った。
「朝ごはんの前に、ちょっとだけ話さない? ベランダ、あったかいよ」
ミルクの湯気が立ちのぼる中、ふたりはベランダに並んで腰を下ろす。
遠くに小鳥が飛んでいくのが見えた。
> ここから、空がよく見える。
りおがノートにそう書くと、蒼真はうなずいた。
「僕も、この部屋で一番好きな場所。夜は星が見えるんだよ」
> みたい。いっしょに。
「うん。いつか、ね」
りおはその“いつか”という言葉を、何度も心の中で繰り返した。
──“いつか”って、どこにあるんだろう。
──遠く? 近く? いま、ここ?
蒼真が続けて言った。
「ねえ、りお。少しずつでいい。僕に“りおの音”を、教えてくれないかな」
> おと……?
「そう。君にとって、嬉しい音、悲しい音、心に残ってる音……。聞こえなくても、りおの中にある音」
りおはゆっくりノートを開き、そこにひとつひとつ書き始めた。
> おとうさんのくしゃみ。
> おかあさんの目覚まし。
> 電車のドアの音。
> 風の音。
> 雨の音。
> ないてるじぶんの声。
蒼真はそれを、ひとつずつ目で読み、ゆっくりとうなずく。
「りおの中に、ちゃんと音は生きてるんだね」
その日から、ふたりは毎日、少しずつ言葉を交わすようになった。
ご飯を食べながら。
一緒に洗濯物を干しながら。
買い物帰りのバスの中で。
お風呂上がりにアイスを分け合いながら。
会話はまだ多くない。
けれど、言葉のかわりに心が伝わる瞬間が、いくつもあった。
ある日、りおは小さな紙に、そっとこう書いた。
> わたし、ここにいていいのかな。
蒼真はその言葉を見て、しばらく黙っていた。
そして、やさしく紙の端に書き加えた。
> いてほしい。
> りおがいてくれると、世界が少しやさしくなる。
涙がこぼれた。
声にはならないけれど、りおは確かに、笑った。
そしてその夜。
空は晴れて、満天の星が広がっていた。
ふたりはベランダに出た。
並んで座って、空を見上げる。
「この空の星、一つひとつに名前があるんだよ」
> わたしにも、ある?
「うん。りおという名の星は、いまここにある」
りおはそっと、蒼真の袖をつかんだ。
もう何も言わなくても、胸の奥にある言葉が届いている気がした。
星の光が、ふたりの肩をそっと照らしていた。
第五章 この胸に生まれた、はじめての熱
いつの間にか、蒼真のいる日常が“あたりまえ”になっていた。
朝、ノックの音で目が覚める。
温かいミルクと、蒼真の優しい声。
天気の話、スーパーの安売り情報、夕食の相談。
どれもなんてことない日常。だけど、それが嬉しかった。
──その“嬉しい”の奥にある感情に、気づいてしまったのは。
ある晩、夕食の片づけをしていたときのことだった。
「りお、髪、結んだほうがいいよ。水で濡れる」
そう言って、蒼真が後ろに立ち、ふいにりおの髪を手に取った。
長く伸ばした黒髪を、やさしくひとつに束ね、ゴムで結ぶ。
その手が、あまりに丁寧で、あたたかくて──
思わず、りおの胸が“ぎゅうっ”と痛くなった。
> ありがとう。
> ……なんか、へんなかんじ。
りおはノートにそう書き、蒼真に見せた。
彼は少し首をかしげた。
「変な感じ?」
> ここが、あつくなる。
りおは胸を指さした。
すると、蒼真の顔が少し赤くなったように見えた。
「それは……もしかして、恋、ってやつかもよ」
──こい。
知らない言葉じゃなかった。
だけど、耳の奥でその言葉が小さく弾けるように響いた。
> 恋って、どんなもの?
「んー……誰かのことを、つい考えちゃうとか、そばにいたくなるとか……」
> それ、ある。
「えっ?」
> わたし、そうかも。
書いたあと、りおの顔は真っ赤になった。
蒼真も固まって、しばらく口をつぐんだあと、照れ笑いをした。
「……そっか」
それだけ。
でも、それだけで、なぜか涙が出そうだった。
翌日から、少しずつ距離が変わった気がした。
洗濯物を干す手が、ほんの少し近い。
料理をする横顔が、やけにかっこよく見える。
それだけで、胸が苦しくなる。
──だけど。
彼との年齢差が、時々ふと胸をよぎる。
蒼真は社会人。りおよりも、きっと十歳以上年上。
包み込むようなやさしさは、大人の余裕のようで──
それが少しだけ、遠い。
> わたし、こども、だよね。
ある日、りおは勇気を出してノートに書いた。
蒼真は、りおを見つめて言った。
「うん。でも、ただの“子ども”じゃないよ。ちゃんと、りおっていう人間。……大切な人だよ」
> それって、どういうこと?
「りおのことを、大事に思ってるってこと。守りたいって思うこと。……近くにいてほしいって思うこと」
りおは、ふるえる手で書いた。
> わたしも。そう、おもってる。
その言葉を見た蒼真は、優しく微笑んで──
そっと、りおの頭に手を置いた。
「ありがとう。……少しずつでいい。ゆっくり進もう」
ゆっくり。
ゆっくりでいい。
──でもいつか、この気持ちを、言葉じゃなくて伝えたい。
そう思った。
蒼真が部屋を出たあと、りおは鏡の前に立った。
まだ子どものような顔。
でも、心は今までよりずっとずっと、大人になっている気がした。
> 恋をしている、わたし。
その言葉を、ノートの一番最後に、そっと書いた。
第六章 願いが、もしも叶うなら
春の終わり、風が心地よいある日。
りおの心には、少しずつ自信が芽生え始めていた。
蒼真と過ごす日々が、静かな優しさで彼女の傷を癒していったからだ。
「りお、今週の土曜、出かけようか」
蒼真が言った。りおは少し首をかしげる。
「近くで桜のライトアップがあるんだ。夜だけど、行ってみる?」
> いきたい!
ノートにそう書いた瞬間、りおの目がキラキラと輝いた。
その夜、蒼真が選んでくれたワンピースに袖を通し、
髪をふわりとゆるく巻いて出かけたりお。
鏡に映る自分に、ほんの少しだけ「きれいかも」なんて思った。
桜の花が夜の光に照らされ、まるで夢のように咲き誇っていた。
まわりは家族連れや恋人たち。
でも、りおは蒼真と一緒にいることだけで、胸がいっぱいだった。
> きれい……。
> ……まほう、みたい。
「本当に。こういうの、見せたかったんだ」
蒼真は微笑んで、ふとりおの手を取った。
その手は大きくて、あたたかくて。
りおの鼓動が、一気に跳ね上がる。
> ……ドキドキする。
「……俺も、してるよ」
不意にそんなことを言われて、りおは目を丸くした。
「……変かな。こんな歳で」
> かわない。
> むしろ、うれしい。
りおは、迷わずそう書いた。
──その帰り道。
静かに手をつなぎながら、夜風に吹かれて歩いた二人。
けれど突然、蒼真が立ち止まる。
「りお。……ひとつ、話さなきゃいけないことがある」
> ?
「俺、少し前から体の調子がよくなくて……検査を受けたんだ」
りおの心臓が音を立てる。
「まだ確定じゃない。でも、……もし、病気だったら、りおに迷惑をかけるかもしれない」
> そんなの、かんけいない。
りおの手が震える。
でも、心の声をノートにしっかり書きつける。
> わたしは、そばにいたい。
> いっしょにいたい。
> ……こわくても。
蒼真はその文字を見て、何かを押し殺すように微笑んだ。
「ありがとう。……そう言ってもらえるのが、一番嬉しいよ」
桜の花びらが、風に舞った。
願いが、もしも叶うなら。
この人と、もっともっと未来を見たい。
りおは、心の奥底で、そう願った。
第七章 それでも、そばにいたい
蒼真の病気のことを知ってから、りおの日々は少しずつ変わった。
不安。怖れ。
けれどその中に、揺るがない想いがひとつあった。
──この人のそばにいたい。
たとえ明日が見えなくても。
施設では、りおが何かを隠していると気づいた職員たちが、やさしく声をかけてくれた。
「りおちゃん、最近……何か悩んでる?」
> ……ちがう。
「無理しないでね。話したくなったら、いつでも言っていいから」
りおは小さくうなずいた。
でも、話せるわけがなかった。
蒼真のことは、特別だから。
大切にしたいから、軽々しく誰にも言いたくなかった。
そんな中、蒼真との面談がいつものようにあった。
「りお、今日は少し遠回りして帰ろうか」
> うん!
歩道橋の上、夕日が街をオレンジ色に染める。
りおは少し震える手で、ノートにこう書いた。
> ……こわくないの?
蒼真は少しだけ目を見開き、苦笑するように答えた。
「嘘ついてもしょうがないよね。……こわいよ。でもさ、後悔はしたくない」
> わたし、どうしたらいい?
「りおはりおのままでいてくれれば、それでいい」
しばらく沈黙が続いた。
けれど、その静寂すら心地よかった。
──でも、本当にそれでいいの?
りおの中にひとつの決意が芽生えた。
> わたし、はたらきたい。
「え?」
> 将来。しっかりして、そばにいたい。
> 蒼真さんに、ちゃんと頼ってもらえるように。
「……りお」
蒼真の瞳が少し潤んでいた。
言葉を失った彼の手を、りおはそっと握る。
──年の差なんて、関係ない。
──病気だって、未来がわからなくても。
私はこの人と、生きていきたい。
夕暮れの空に、小さな決意が吸い込まれていくようだった。
その日の夜。
りおは一人、ベッドの中で日記を綴った。
> 蒼真さんと出会えてよかった。
> わたしの世界は、たしかに変わった。
> 愛って、もっと複雑で、でも……でっかいものなんだと思う。
目を閉じると、今日のあの手の温もりが思い出された。
──もう、迷わない。私は私の「でっかい愛」を生きる。
第八章 その選択に、愛をこめて
春が来るのが、こんなに遅いなんて思わなかった。 蒼真の診断結果を聞いた日から、りおの中にあった季節の感覚は、ずっと止まっていた。
余命──という言葉は、現実感がなかった。 けれど、蒼真の手の温度、言葉の震え、何よりも優しさだけが、確かにそこにあった。
「りお、今日は話したいことがあって」
公園のベンチに座っていた蒼真が、いつになく真剣な表情で口を開いた。 りおはうなずき、そっとノートを開く。
「俺さ、仕事……少しずつ整理していこうと思う。通院も増えるし、体力も落ちてきたから、正直……ずっとは働けない」
……かなしい。
「うん。俺も、悔しいよ。でもね……」
蒼真は、りおの顔をまっすぐに見つめた。
「悲しみの中に希望を見つけられるのは、りおのおかげだよ」
りおの手が、少しだけ震えた。 言葉が出なくて、何度もノートにペンを走らせる。
わたし、夢がある。 子どもにかかわる仕事がしたい。 施設の先生たちみたいに、やさしくて、ちゃんと支えられるひとになりたい。
蒼真の目が、ふっとやわらかく細まった。
「……いい夢だね。似合ってる。きっとなれるよ」
蒼真さん、 それまでそばにいて。
ふたりの影が長く伸びる午後。 沈黙の中に、心が溶けていくようだった。
その夜。 施設の職員室に、りおは一人で入った。
「りおちゃん……?」
進学のこと、相談したいです。 ちゃんと勉強して、夢を叶えたい。 将来のために、自分で選びたい。
職員は少し目を潤ませてうなずいた。
「りおちゃん、強くなったね」
その日から、りおのもとに来訪者が増えた。施設の進学支援の担当、学校の先生、時には市の福祉課の職員まで。
「こんにちは、りおさん。今日は奨学金の話をしましょうか」
(はい。お願いします)
丁寧な手話と、真剣な眼差し。 りおの心は、ひとつひとつ、未来への石を積み重ねていくようだった。
別の日。
「制服の試着、緊張した?」
(ちょっとだけ。でも、似合ってるって言ってもらえました)
職員がうれしそうに笑った。
「ふふ、そっか。きっと、りおちゃんの笑顔が一番似合うよ」
(……ありがとう)
春が静かに、でも確実に近づいてくる。 花のつぼみが開き始めるように、りおの胸にも希望が芽吹いていた。
* * *
ある午後、蒼真の病室で。
「りお、ちょっとこっち来て」
(なに?)
「ここ、ここ。窓から見える桜の木、見える?」
(うん。咲き始めてる)
「君と初めて出会った頃、桜なんて気づきもしなかった。でも、今は……すごくきれいに見える」
りおはそっと彼の手を握る。
(蒼真さんが、気づかせてくれたから)
「違うよ。君がそばにいてくれるから、俺が変われたんだ」
心がふるえた。
ふたりはしばらく、静かに桜を見つめた。 その一瞬一瞬が、永遠に続くように感じた。
* * *
春風に誘われるように、未来への準備が進んでいく。 制服の採寸、通学ルートの確認、教材の申し込み、そして小さな生活用品。
りおは、未来を選ぶ覚悟を胸に抱きながら、確かな一歩を踏み出していた。
「ねえ、りお……制服姿、見せてくれる?」
(うん、約束する)
「俺さ、少しでも長く生きたいって思った。りおの成長を、もっと見たい」
(わたしも、ずっとそばにいてほしい)
りおの指が、ていねいに手話を結ぶ。 その表情はもう、かつての孤独な少女ではなかった。
春風がカーテンを揺らし、ふたりの間に温かい空気を運んできた。
その瞬間、未来はまだ不確かでも、心はたしかに希望を選んでいた。
* * *
病室の窓辺で、りおは静かに制服を見せた。 ネイビーのブレザーに白いシャツ、リボンを結んだ自分の姿に、少しだけ照れくさそうな表情を浮かべながら。
「……すごく似合ってるよ」
蒼真の目が、涙でにじんでいた。
「夢への一歩だね」
(うん、そして、蒼真さんがくれた未来)
りおはノートに、ていねいに文字を記す。
その手元に、蒼真はそっと自分の手を重ねた。
「りお……俺ね、もう怖くないよ。君がいるから」
りおも、小さくうなずく。
そして心の中で、しっかりと誓った。
──どんなに切なくても、この愛を、未来に連れていく。
それは、りおにとって大きな一歩だった。 夢、希望、愛、そして別れの予感。 そのすべてを受け止めて、生きていくと決めた瞬間だった。
最終章 さよならのあとに、君がいた
春の風が、病院の屋上に吹き抜けていた。
空は青く、まるで永遠が広がっているようだった。
りおは、そっと蒼真の車椅子に近づく。
彼は目を閉じていたけれど、りおの気配に気づき、ゆっくり目を開けた。
「……来てくれたんだ」
りおは無言で頷き、彼の隣に腰を下ろす。
手を伸ばしたい。けれど、その指先はわずかに震えて、触れることができなかった。
「……なんかさ、風、あったかいな」
風に吹かれながら、蒼真がぽつりと言う。
りおはポケットから手紙を取り出し、彼の膝にそっと置いた。
「……手紙?」
彼は、かすかに笑って封を開ける。
蒼真さんへ
あなたに出会えて、わたしの世界は音のないまま、たくさんの色を持ちました。
笑ってくれて、泣いてくれて、そばにいてくれて、ありがとう。
わたしはこれからも、生きていきます。
あなたの愛を、わたしの中に抱いて。
愛しています。
永遠に。
読み終えた彼の目に、涙が浮かんだ。
震える手でりおの手を探すように伸ばす──が、もう力が入らない。
(……ごめんね)
りおは、彼の手を包み込むように握った。
「……ありがとう……」
彼の唇が動いた。でも、もう声にならなかった。
──次の瞬間。
強く吹いた風が、りおの髪を揺らした。
そのまま、彼の瞳はゆっくりと閉じられていった。
彼の肩が、ほんの少しだけ沈む。
あまりに静かで、あまりに穏やかな──最期だった。
りおは、言葉にならない叫びを胸に閉じ込めたまま、彼の手を抱きしめた。
涙がとめどなく頬を伝う。
(お願い、……まだ……もう少しだけ……)
その願いは、空に吸い込まれていく。
けれど、彼はもう、何も答えなかった。
***
──数週間後。
小さな保育園で、実習生として働くりおの姿があった。
子どもたちの声は届かないけれど、目に映るその笑顔は、どんな音よりも確かな音楽。
昼休み。りおはふと、空を見上げた。
あの日と同じように、青くて広い空。
──見ててね、蒼真さん。
──わたし、生きてるよ。あなたと約束したから。
その胸に宿るのは、もう“悲しみ”ではない。
“受け継いだ想い”という、あたたかな光だった。
そして、その光は、未来へと続いていく。
最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。
音のない世界に生きてきた少女・りおと、
余命を抱えながらも人を愛することを諦めなかった蒼真。
ふたりが出会い、心で言葉を交わし、
ゆっくりと、でも確かに結ばれていく過程を、
一緒に見守っていただけたこと、とても嬉しく思っています。
切なくても、悲しくても、
それでも「愛せてよかった」と思えるようなラストを目指しました。
誰かの心に、そっと寄り添えるような物語になっていたなら幸いです。
感想や評価などいただけたら、励みになります。
ありがとうございました。