9 魔法、もしくは呪い
クレイとサキの出会いは9年前にまで遡る。サキが18歳、クレイが25歳の時だ。サキが牧場の看板の陰で一人隠れて涙を流していた時に、それをたまたま見かけたクレイが声をかけた、というのが二人のファーストコンタクトだった。
未知との遭遇、ではない。運命的な出会い、という訳でもない。サキとしてはその姿を誰にも見られたくなかったし、クレイとしては偶然通りがかっただけに過ぎない。ただ、そのまま通り過ぎる事も出来たが彼はそれをしなかった、という点が、クレイの性格の一端を表しており、サキが熱心に主張するところでもある。だから、クレイは優しいのと。
それから紆余曲折を経て、二人は討伐者としてコンビを組む事になり、4年の間、前半は先生と生徒として、後半はお互いを相棒として魔物狩りを行い共に過ごした。なお、その4年の間にライザニア地方に棲息していた無数の魔物をほぼ狩り尽くすに至るのだが。
この頃の二人の関係を一言で表現するのは、実はかなり難しい。
単なる仕事仲間、と言うには二人で一緒にいる時間が多過ぎたし、友人や親友と言うには二人の距離が近過ぎた。恋人同士、という表現が一番ぴったりと来るのだが、そう呼ぶにはとある儀式が必要だったし、二人はそれをしようとはしなかった。
告白。
世間一般的な話をするのであれば、それは男のクレイからするのが普通だろう。だが、前述した通り、それをクレイからするには数々の精神的な障害があり、なかなか踏み切れずにいた。彼にそんな魔法、あるいは呪いをかけたのは実はサキだったのだが、彼女はその事を全く覚えていない。
一方で、サキの側からすると、クレイは遠慮なく甘えられる優しい兄、といった存在であり、この当時は自分の気持ちに気付いていなかったから、当然、告白に至る事もなかった。彼女にそんな魔法、あるいは呪いをかけたのはクレイだったのだが、彼はそれがきっかけで恋に堕ちる事になったのだから、皮肉としか言いようがない。
サキと出会ってから約1年が過ぎた頃だろうか。普段はあまりそんな話をしないサキがクレイに突然訊いてきた事があった。
「ねえ、クレイ。クレイって私の事、恋人とか勝手に思ってたりする? まさか、そんな事ないよね?」
どうしてそんな嫌疑をかけられたかと言えば、珍しくサキが街で一人で買い物をしていたら、かなりの頻度で全く違う人から同じ質問をされたからだ。サキさんってクレイさんの彼女さんなんですよね、と。
それは服屋の女性店員であったり、本屋の女性店員であったり、理髪店の女性店員であったりするのだが、何度も同じ質問を違う人間から受けるものだから、サキは思った。あれ? もしかしてクレイって私の事を恋人とか勝手に言いふらしている? まさか、そんな事ないよね、と。
真相を辿るのであれば、それはクレイに興味を持った女性達が、いつも一緒にいたサキに確認と言うか、付き合ってるかどうかのチェックをしただけだった。だが、当時のサキは残念ながらそういった事に考えが至らず、だからこそ、クレイにそんな質問をする羽目になった。
唐突な疑いをかけられたクレイは慌ててしどろもどろに答える、なんて事はしなかった。ごく落ち着いた口調で一言、「いや、恋人とは思ってないが」と返す。この頃のクレイはサキに対して恋心を抱いていなかったので、本当に素で返した。
「だが、どうしてまた、いきなりそんな事を? 何かあったのか?」
「ああ、うん、実はね……」
事情を聞いたクレイは、ああ、なるほど、と小さく頷いた。確かに俺とサキは一緒にいる事がほとんどだからな、そういう誤解を受けても仕方がないか、と。
「とはいえ、俺にとって今のサキは手のかかる妹みたいなものだからな。今度聞かれたらそう伝えといてくれ。変な誤解を受けたらサキも困るだろうし」
クレイは余計な事を言った。本当に余計な事を言った。家族というものを知らないサキにとって、『妹みたいなもの』という言葉は憧れ的な魔法の言葉であり、同時に呪いの言葉となって後からサキに返ってきた。
……赤ん坊の時からサキには家族も親戚もいない。孤児院の玄関前に捨てられていた。そこのシスター達に19人目の子供が来たと暗鬱な顔をされながら拾われた。もう育てる余裕なんて、この孤児院にはどこにも残っていないのにと思われながら。
サキ・ソレイルという名も、そこのシスター達が義務的に名付けた当たり障りのない名前だった。個体番号19番と呼ぶよりは遥かにマシだろうと付けられた名前だ。彼女は愛情によって育てられたのではなく、もう一度捨てる訳にもいかないという理由で仕方なく育てられた。
サキが8歳の時、孤児院を飛び出して家出をした事があった。シスター達の誰一人としてサキを探しには来なかった。夜になり暗くなって怖くなって、結局、サキは一人で孤児院に帰った。シスター達は全員寝ていた。サキがいなくなった事に彼女達は気付いていなかった。この大きい世界で私は誰からも心配されず一人ぼっちなんだとサキが気付いた時だった。
夕暮れ時、親に手を引かれて広場から帰る子供達を、幼いサキはいつも羨ましそうに眺めていた。姉と一緒に仲良さそうに買い物をする妹。危ない真似をするなと兄に怒られている弟。その当たり前に見かける光景がとても羨ましかった。何度も頭の中で妄想した事がある。優しい父に優しい母、そして少し心配性な兄とやたらお節介な姉、そんな5人と毎日一緒に食事をする。お腹一杯食べる。ただ、それだけで最高の幸せなような気がした。
……だから、サキは幼い頃から、家族がいて兄姉がいる温かな家庭というものに特別な憧れを抱いていた。
サキから見たクレイは、出会った時からずっと、変わる事なくいつも優しかった。いつだって私の心配をし、時にはお節介を焼き、時には面倒臭い説教もし、だけど困ってる時には必ず助けてくれた。もし家族がいて兄がいたとしたら、きっとこんな感じなんだろうな、とサキは思った。あるいは、そう思い込んだ。
少し躊躇いがちに、気恥ずかしさから頬を軽く染めながら、自然と上目遣いになってサキは尋ねた。
「ねえ、クレイ。私の事、妹みたいに思ってるって、それ本当? なら、私もクレイの事をお兄さんみたいに思ってもいいかな?」
今になって思えば、サキに恋をした瞬間はここだったのかもしれない、とクレイは思う。最悪のタイミングであり、だが、男を一瞬で虜に出来るほどその時のサキは可愛らしくいじらしかった。
小さい頃から誰かに甘える事が許されなかったサキにとって、クレイは思い切り甘えられる事が出来る初めての存在となった。甘え加減というのも当然よくわからず、それは傍から見れば兄妹というより、まるで恋人同士のように映った。
「ねえ、クレイ。これからは朝御飯も一緒に食べない。家族みたいに。一人で食べるの私嫌いだし。ね、いいでしょ?」
「クレイ、知ってる? 今度新しくお菓子屋さんが出来るんだって。クレイと一緒に行きたいな、私。で、その後に、劇場にも行きたいかも。久しぶりにお芝居が見たくなっちゃったから」
「クレイ。私、どこか旅行に行きたいって思ってるの。ずっと同じ生活は嫌いだし、飽きるから……。だから、どっか連れてって欲しいなって。……ダメ?」
それらのリクエスト、あるいはワガママを、クレイは「わかった」「いいぞ」「仕方ないな」の三つの言葉でほとんど引き受けた。たまに断る事もあったが、それにはサキが納得するだけの断る理由があった。少なくとも「面倒臭い」「気乗りしない」「疲れてるから今度な」という台詞をクレイはこれまで一度もサキに使った事がない。
サキとしては幸せな毎日だった。お酒を覚えて、クレイと一緒に飲むようになってからは、より幸せだった。サキは酒が大がつくほど好きで、つい飲み過ぎて酔い潰れる事も多々あった。その度にクレイに背負われ、家まで送り届けられるのもサキは好きだった。広い背中に抱きついて掴まっていると何故か安心するのだった。
「ねえ、クレイ……」
「何だ?」
酔ってぼうっとした頭の中、心地良い眠気と安心感から、サキはクレイにとある魔法の言葉をかけた。あるいは呪いの言葉をかけた。
「ずっと私のお兄さんでいてね……約束だよ」
長い沈黙があった。クレイは何か言おうとしてやめ、「努力してみる」とだけ答えた。
サキは何も言わなかった。後ろで小さな寝息を立てて寝ていた。
サキはその事を覚えていない。
ある意味、それはサキからの最上級の愛の言葉だったと言える。ずっと私といてね、私の事を嫌いにならないでね、私はクレイの事が大好きなんだから、そんな意味合いしかない。だが、言われたクレイにとっては最上級のキツさを伴う言葉だった。あなたは恋愛対象じゃないから、どこまでいってもそれは変わらないから、お兄さんはお兄さんのままでずっといてね、そう言われたに等しい。少なくとも、クレイはそう受け取った。そう受け取らざるを得なかった。
……結局のところ、二人は二つの魔法の言葉、あるいは呪いの言葉によって、現在、こんな状況になっていると言える。恋人同士のような距離感でいながら、恋人同士にはなれない。お互い好き合っているのに、お互い誤解が続いたままで踏み込めない。片方は自分の想いを諦めようとしていたし、もう片方に至っては振られる自信しかなかった。これでは、何も変わるはずがない。何か大きなきっかけでもない限り、これから先もそれは一切変わる事がないように思われた。
だが、もしも、そのきっかけがあったとしたら?
その答えがこれだった。
クレイは前述した通りサキに二回目の恋をして心臓が早鐘を打っていたし、頭の中はサキの事だけで埋め尽くされていた。
『クレイに会いたくなって……来ちゃったの』
何だよ、それ。反則だろ。どうしてお前はいつも、俺を素直に諦めさせてくれないんだ。人をこれだけ片想いにさせておいて、まだ追い討ちをかけてくるのか。どこまで俺を深みに放り込めば気が済むんだ。
一方でサキの方はと言えば、恥ずかしさでまともにクレイの顔を見る事すら出来なくなっていた。
『クレイに会いたくなって……来ちゃったの』
来ちゃったの、て何よ。来ちゃったのって。完全に5歳児の子供なんだけど。私、今何歳だと思ってるのよ。こんな事、言うつもりなんか全然なかったのに! なんか色々考えてたはずなのに! クレイの顔見たら全部忘れた! もうヤダ。恥ずかし過ぎて死にたい。絶対、呆れられてる。苦しい。もう帰りたい。
その様子を見る事となった侍女は、クレイを見て、サキを見て、可愛らしくて羨ましいんだけど、と思った。こんな幸せそうに恋愛する人ばかりだったらきっと世界から争いなんてなくなるのに、と彼女はよくわからないどうでもいい感想を抱いた。




