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6月 香坂梨乃21歳


 喫茶マロンのランチタイムの嵐を乗り切り、私は肺に溜まった重苦しい空気を吐き出す。シックなBGMがようやく耳に入るようになり、私はカウンター席に寄りかかるように座る。


「珍しく混んだな今日は」

「そうだね。今日近くでイベントがあるからだとおもうよ」

「確かに若いお客さん多かったな、お前と同じくらいの」


 オーナーの父さんはカウンターに立ち、私のコーヒーを淹れながら乾いた笑いを浮かべる。父さんからコーヒーを受け取り、ありがとと短くお礼を言って口に含む。今日の豆はキリマンジャロ。強い酸味が特徴で、疲れた体になかなか染み渡り、思わずはぁと息を漏らす。

 今は他にお客さんがいないのでこうして気兼ねなくコーヒーを味わえるのだ。

 

「梨乃、大学は行かなくていいのか?」

「うん。もう単位取り終えてるし週に1回ゼミに行くだけでいいんだ」

「そっか。まあ別に無理に家の手伝いをする必要もないからな」

「別に無理なんかしてないよ。来年の4月から出来なくなるしここの手伝いをしたいんだ」

「しかしお前が女子アナか。母さんも喜ぶだろうな」


 父さんは店の壁にかけられた綺麗な頃の母さんの写真を見上げながら微笑む。私もつられて母さんの写真をみる。このときの写真は父さんと母さんが結婚記念の時に撮ったもので、2人とも若かった。母さんは肩まで流れるストレートヘアで、スタイルもすらっと流れる曲線を描いている。けれど頬は健康的にふっくらしていて、笑顔が多かった人なんだと想像できる。清楚だけど明るい、まさに女性の理想像がそこにあるという感じだった。そんな彼女の遺伝子を受け継いだことを誇りに思うし、そのおかげで小さい頃からの夢だったアナウンサーという仕事を獲得できたのだと思っている。


「さて、もう暇だからバイト行ってくるな」

「うん、いってらっしゃい」

 父さんはお客さんがいなくなる14時からコンビニバイトにいくのがルーティーンになっている。正直喫茶マロンは繁盛しているとはいえ、所詮従業員が私と父さんの2人しかいないから席数もそんなにないし、私の大学費を賄えるほどの儲けはない。と言っているけど、そんなにシフトを入っているわけでもないので、たぶんゆるく働きたいだけなんだろうなと勝手に私は思っている。

 父さんを見送ると、いよいよ私一人になる。いよいよ静寂が喫茶マロンを支配し、時計の秒針の音までもが聞こえてくる。テーブルに頬を乗せると、年季の入ったコーヒーの匂いが鼻を優しく刺激してくれる。閉店は16時。この2時間は、私だけの時間だ。

 普段営業時間中に流せないJPOPをスマホから流し、父さんが淹れてくれたコーヒー片手に、卒論を進めるべくノートパソコンを叩く。よくスタバでコーヒーをキメながら、意識高そうにMacBookを叩く大学生がいるようだが、私もきっと似たような存在なのだろう。違いといえば、天地がかえっても覆せない企業規模と使っているPCの機種、そして父さんがこだわって仕入れた豆くらいだろうか。

 けれど、そんな私のチルタイムは、ドアベルによって早くも終了を告げられる。私は慌てて音楽を切り、続いてノートパソコンをカウンター下の棚にしまう。そして役目を終えたはずの表情筋を再び起こして、営業スマイルを作る。


「いらっしゃいませ、何名様ですか?」

「あ、一人です……」

「ではお好きなところへお座りください」

「あ、じゃあカウンターで」


 あ、カウンター選ぶんだと瞬時に心のなかで呟いた。私だったら絶対広いテーブル席を独り占めするんけどなと思ったが、好みは人それぞれだろう。私はどうぞといって席へ促し、水を彼に提供する。

 席に座っているのは紺のブレザーを着た高校生の男の子で、眼鏡をかけている。学校帰りかと思ったが、今日は土曜日だ。おそらく塾にこれから行くのだろう。彼はホットコーヒーを注文したので、とりあえず私は今日の分のキリマンジャロを淹れてあげる。


「おまたせしました。本日のコーヒーです。今日の豆はキリマンジャロです」

「ありがとうございます」


 高校生はぼそっとお礼を述べ、コーヒーを一口含む。酸味が強かったようで、少しだけ顔をしかめていた。しかしすぐに表情をもとに戻し、かばんから英語の問題が書かれたプリントを取り出す。その後彼はもう目線をコーヒーから移し、必死に問題を解き始めた。ということは受験生なのだろうか。そういえば私も受験生のときは、同じ時間にここで勉強してたなあと思い出す。

 私はカウンターからパソコンを取り出そうか迷っていたが、一応お客さんの前で自分の卒論をやるのも気が引けるので、カウンターに立ってぼーっと外を見つめて、気づかれないようにため息をつくことしかやることがなかった。けれど外の景色なんてもう小さい頃からあまり変わらないわけで、もう見飽きている。私は何かを探し求めるかのように、彼の解いている問題集に目線を移す。

 現在彼が取り組んでいるのは長文読解だ。内容的にはおそらく英語で書かれた映画のスクリプトで、記載されたタイトルはForest Gump、トム・ハンクスが主演を務めた名作映画だ。発達障害を患っているが、誰にも負けない俊足と実直さを持つ青年が、アメリカの近代史において意図せずして成功を収めていくというヒューマンドラマで、今でも根強い人気がある。私もこの映画はとても好きだ。

 しかし、彼は相当苦戦しているようだ。映画のスクリプトの問題は塾講師が英語力の強化のために考案したものなのだろうが、映画独特の表現に慣れないこともあったりするし、心理描写等は映像を観ないと読み取れないところもあったりするので、なかなか難しいと思う。


「たぶんそこの設問、正解はアップル社だと思いますよ」


 だから思わず、助け舟を出してしまった。彼は一瞬困惑した表情を浮かべ、私も背筋が急に冷たくなり、目線をそらす。

 設問は、「本文中のSome kind of fruit companyとは何を差しているのか記載しなさい」であるが、そのSome kind of fruit companyの後に、お金の心配はしなくていいという意味の英文が本文に書かれてある。これはフォレストが軍役時代に出会ったダン中尉から、戦後設立からまだそんなに経っていなかった頃にアップル社の株の購入を勧められ、フォレストが買ったところ、株価が大きく上昇し、お金に困らなくなったという事を言っているシーンなのだが、明確にアップルとフォレストは発言していないので、映画を見ていないとなかなか難しい。

 突然の助け舟に困惑していた彼は、真偽を確かめるべく回答集を開く。果たして、正解はアップル社と記載されており、彼は驚きの目線をこちらに向けた。


「英語、得意なんですか?」

「そんなでもないですよ、この映画見たことがあるんで知ってるだけです」

「そうなんですね……僕映画とか全然見なくて」

「まあちょっと古い映画ですし無理もないですよ。私も父さんと一緒にリビングで見てたから覚えてるってだけで」

 

 彼はそうなんですねと軽く相槌を打ち、コーヒーを口に含む。喋ったからか少し冷めたからか飲む量が多くなっている。


「でも、この主人公ってなんなんでしょうね。読んでて、ただラッキーな男じゃんって感じがします」

「なんで?」

「アップルの株を偶然持ってたり、海老が大量に釣れて大企業の社長になったり、足が速いってだけで大統領に何回もあってたり……なんかずるいなあって感じます」

「……たしかに。頑張ってるジェニーと比べると、なんかずるいって感じますよね。私も、正直そう思いました」

「ジェニーってフォレストの好きな人ですか?」


 そうか、そこのスクリプトにはジェニーという人物の生い立ちの説明がカットされているのか。まあアップル社の下りも後半のほうであるので、ジェニーの生い立ちを説明するなら映画を最初から観ないと分からない。だから問題としては省く必要もあるのだが、それにしてもフォレストを語るうえで絶対に外せない人物を省くとは、この映画の一ファンとしては嘆かわしい。


「そうですよー。映画見てみたらよく分かると思いますね。あ、そうだ」


 私はちょっとお待ち下さいと言って、店のバックヤードに入る。バックヤードをさらに抜けるとリビングになるので、そこに置いてある上映用DVDの入った戸棚を開ける。お客さんが落ち着いたとき、父さんがよく上映用のDVDを見て暇をつぶしている。そのせいか、私もよく映画を見るようになった。

 私はそこからフォレストガンプを取り出し、彼のもとに戻る。


「よければ一緒に見ませんか?」

「えっ」


 さすがに高校生の彼は驚いていた。なんでカフェの店員が初対面の人間にいきなり映画をいっしょに観ようなんていうのか、って思うのは自然だ。私も正直その言葉が出たのがびっくりだった。でも、なんとなく私はフォレストガンプを観たくなった。理屈じゃない、こういうのは。それに、こういうサービスを提供すればまた来てくれるだろうし、なんて言い訳を勝手に一人で組み立てていく。説明されるわけでもないのに。

 でも、彼はゆっくりと首を縦に振った。意外とノリが良いんだろう。少し困惑気味だったけど。

 DVDが再生されると、最初にフォレストが足が不自由なせいで、近所の子供たちにいじめられるシーンが流れる。しかし、ジェニーが彼をいつも助けてくれた。そしていじめっ子が切れてフォレストに襲い掛かると、ジェニーが彼に走ってと叫ぶ。フォレストは歩行補助具をつけたまま走るが、やがて歩行補助具が外れ、フォレストはいじめっこっちの自転車でも追いつけないようなスピードで駆け抜けるのだった。そのシーンを初めてみた彼は、すごいと思わず漏らしてしまう。

 そこからの彼は店のテレビに視線が釘付けになっていた。フォレストが成功し、ジェニーが夢破れて落ちぶれていく様をしっかりと心に受け止めていた。


「なんか、このフォレストってすごいですね。やることなすことすべてうまくいってるのに、本人はずっとジェニーのことばっかり考えてる」


 ふと、彼がぼそっと感想をこぼす。

 そのシーンは、それこそ問題に出てきたアップル社の株価が高騰したシーンだった。その時のフォレストは、ババガンプシュリンプの社長かつ卓球のアメリカ代表で知名度があり、その上アップルの古参株主であるのでどう見ても社会的に成功しているのだが、彼は常にジェニーのことを気にかけている。そのジェニーは、幼い頃に父親から性的虐待をうけたり、ミュージシャンになる夢を叶えようと奮闘するも、グラビアに出演したせいで大学を追い出され、ストリップまがいのショーに出されたり、薬物に手を染めてしまったり、過激な活動家の男と交際し暴力を振るわれたりと散々だったけれど、彼はジェニーのことをずっと愛していて、ジェニーこそ彼にとってのすべてだったのだ。


「まあ女の子からしたらあそこまで重いのは気が引けるけど」

「女の子ってああいう一途なのが好きなんじゃないんですか」

「いや、一度は女の子は悪い男が好きになるもんなの。ジェニーなんかそうじゃない」


 そうはいいつつも私は当初ジェニーのことが好きじゃない。悪い男を好きになるのはともかく、一生懸命心配してくれるフォレストの手を振り払い続け、結局フォレストと結ばれるのは自分が何もかも失ってからだ。金も生活も全部フォレストに依存しているので、フォレストからしたらただただ損な役回りだ。まあもちろんフォレストがそれを良しとしているのは伝わるのだが、女としては、「ずるい」と思ってしまうわけだ。


「あの、お姉さんはそういう悪い人を好きになったことあるんですか?」

「いきなりだね、あたしたち初対面なのよ」

「でももう敬語やめてるじゃないですか、お客さんなのに」

「君は私より年下だと思ったし、いっしょに映画見てるんだからもうお客さん扱いしなくてもいいかなって」

「今何歳なんですか?」

「女の子に年聞くかなあ。まあ大学4年生とだけ言っておこう」

「あ、もう4年生なんですね。僕は高校3年です」

「知ってるよ、どう見ても受験生じゃん。名前は?」

「高坂真です」

「え、こうさかってもしかして私と同じ苗字? 私も香坂なんだけど」

「ほんとですか? 漢字は高い坂って書くんですけど」

「あー……私は香る坂って書くんだ。読み方だけ一緒だね」

 

 気が付けば映画がエンドロールを迎えていた。フォレストとジェニーの間に生まれた息子フォレストがバスに乗って学校に行くシーンで終わるのだが、そこを見逃してしまった。あそこでようやくジェニーもフォレストも幸せをつかむというのに、私たちは無視して夢中になって会話をしていた。

 そんな気まずさをごまかすように、私は自分の分のコーヒーも入れ、グイっと喉に入れ込み、小休止を挟む。

 

「映画、面白かった?」

「面白かったですね。後でアマプラで見ようかな」


 それはよかった。進めたかいがあった。


「あの、また来てもいいですか?」

「もちろんいいよ、高坂君。でもワンオーダー制ね」

「もちろんです。じゃあそろそろ塾なんで、帰ります」

「受験、頑張ってね」


 はいと、明るさが少しだけ増した笑顔で応えると、コーヒー代400円を支払って、彼は帰った。時計を見るともう16時を過ぎている。Closedの札をドアにかけ、電気を消し、店の入り口の鍵を閉めて私も自分の部屋に戻っていった。


「何やってんだ、私」


 ベッドに横たわりながら私は天井を見つめる。だんだん白い天井がキャンバスに見えてきたので、先ほど知り合った高坂君の顔を描いていく。決してイケメンではないけど、真面目そうで、でも少し可愛げがあって、気が付けば色々話してた。別に大学の近くでもないから年の近いお客さんが来ることがほとんどない、というのもあるのだけれど。最近彼氏と別れたせいかなとも思ったが、別に彼氏にしたいわけでもない。というか正直今は彼氏はいらない。今はこうして父さんの喫茶店を手伝っている方が気楽なのだ。それに、4月からアナウンサーになるのだ。卒論やったり、活舌をよくするためのトレーニングをしたりと、やることがいっぱいだ。

 ふと、机の上に置いておいた携帯が震える。手に取ると、そこには人事担当者からの連絡があった。

 6月10日に、誰もが知っている大物芸能人と飲み会があるので新人アナウンサーは出席してくださいという連絡だった。しかも予定では2次会も開催するらしい。おそらく顔合わせ的な感じなのだろうし、大物芸能人とのつながりは結構業界的にも重要だったりするだろう。そもそも拒否することはできないので、私はすぐさま行かせてくださいと即答したのだった。



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