藍の残響
カロン
夕闇に包まれた部屋の中、龍之介は手のひらの上で煤けた鈴を転がしていた。
今になって青波出身の人間と出会うとは。
これは何かの因果なのか。
……いや、ここは元青波だった土地だ。
むしろ今まで出会わなかったことの方が不思議か。
窓から差し込むシヴィタスの光が、ぼんやりと部屋を照らす。
ルミナシティ——アルカディアの理想郷。
エテルナ・スパイアから放たれるルミナスエネルギーは、シヴィタス全域を藍碧色に染め上げる。
ベルトに届くのはその残りカス。
そのわずかな電力ですら、ナイトリングに優先的に回され、ベルトの住人たちは慢性的な電力不足に悩まされている。
いや、もうそんな環境に慣れ切って、悩むことすらしなくなったのかもしれない。
金のある者は自家発電で明かりを灯し、そうでない者は早々に床に就く。
ベルトの夜は早い。
「さて……そろそろ出るか」
煤けた鈴をポケットに仕舞い、龍之介は静かに立ち上がった。
***
雨上がりの青海区には、ひんやりとした空気が漂い、遠く鳳灯街の喧騒がかすかに響いていた。
この時間、街は静まり返り、明かりの灯る建物は数えるほどしかない。
ここは紅王会に雇われた労働者たちが集まる地区で、ベルトの中では比較的治安がいい方だ。
それでも、たまに他所から来たゴロツキが街の人間にちょっかいを出す。
関わりたくはないが、目の前でやられちゃ見過ごすわけにもいかない。
そうやって助けているうちに、いつの間にか便利屋稼業をやる羽目になっていた。
そうなると、今度はあちこちから「屋根を直してくれ」「病院に連れてってくれ」「チンピラが暴れてる」などと、好き勝手な依頼が舞い込むようになる。
「まぁ……何もしないでいるよりゃいいか」
そんな風に考えながら、この街で過ごしてもう二年になる。
依頼をこなせば、それなりの報酬——と言っても大した額じゃないが、食うには困らない程度の実入りはある。
たまに今回のように、大きめの報酬が期待できる仕事も舞い込む。
特に目的もなく、ただ生きている龍之介にとって、この街は妙に居心地のいい場所だった。
***
鳳灯街に近づくと、街の喧騒はより一層大きくなる。
青海区とは対照的に、人の流れも灯りも夜通し途絶えることはない。
露店から漂う香辛料の独特な香りに、思わず腹の虫が鳴る。
「……とりあえず、腹ごしらえでもするか」
立ち並ぶ屋台の一つに腰掛けると、忙しそうな店主がチラリとこちらに目をやる。
「羊肉串、花生毛豆,再来一瓶啤酒。(羊肉串と花生毛豆、あとビール)」
龍之介はこの街に住む前、世界中を回っていた。
その時覚えた言葉で、多少の意思疎通なら出来る。
インプラントを持たない龍之介は、翻訳機能も使えない。
不法滞在者である彼の、最低限の処世術だった。
店主は返事の代わりにもう一度龍之介を一瞥した。
少し待つと、料理とビールが乱暴に目の前に置かれる。
愛想のかけらもないが、ここではそれが普通だ。
目の前には、串に刺さった羊肉が熱気を立てながら横たわっている。
クミンと唐辛子のスパイシーな香りが鼻をくすぐり、胃が食欲を訴えた。
龍之介は一本手に取り、かじりつく。
炭火で炙られた肉の表面はパリッと香ばしく、噛むほどにクミンの風味が広がる。
脂ののった部位からはじゅわりと肉汁があふれ、ピリッとした唐辛子の刺激が舌をかすめた。
「……チッ、熱いな」
舌先を鳴らしながら、目の前のビールをひと口。
冷えた液体が喉を流れ、スパイスの辛さと脂の濃厚さをさっぱりと洗い流す。
夜風にさらされた汗がひんやりと冷えて、ようやくひと息つけた気がした。
隣の皿には花生毛豆——殻付きの茹でピーナッツと枝豆が盛られている。
片手で殻を割り、中の実をつまむ。
ほのかに塩が効いており、しっとりとした食感が口の中に広がる。
特別うまいわけじゃない。
だが、こうして酒を飲みながら適当に腹を満たすには、ちょうどいい。
龍之介は串をもう一本取り、歯で肉を引き剥がしながら、ぼんやりと鳳灯街のネオンを眺めた。
ガッシャァァァン!
突然、背後で何かがひっくり返る音が響いた。
龍之介が片手に串を持ったまま目を向けると、大柄な男たちが三人、一人の老人を囲んでいた。
「おいジジイ! テメェ、どこ見て歩いてやがんだ!!」
男の一人が老人に詰め寄る。
「ヒ…ヒィッ……あ、あんた達が急に立ち上がるから……」
どうやら、老人が男たちにぶつかり、男の持っていた食べ物を落としたらしい。
あるいは、男たちがわざとぶつかったのかもしれない。
どちらにせよ、この街じゃよくある光景だった。
龍之介はため息をつき、手にした串を弄びながら呟く。
「……面倒くせぇな。俺の見えないとこでやってくれよ……」
怯え震える老人に、男はさらに詰め寄り、怒声を上げた。
「うるっせぇな! 今日は玲瓏ちゃんが休みでイラついてんだ! ちょっとツラ貸せ!!」
「わ、悪かったよ…! 許してくれぇ!」
玲瓏……確か美咲のカジノでの源氏名か。
あいつ、意外と人気あんのか。
龍之介がそんなことを呑気に考えている間に、男たちは老人を引きずり、路地裏へと消えていった。
「誰か助けてくれ!」
路地裏から老人の悲鳴が響く。
はぁ………………
龍之介は深いため息を吐くと、皿の上の料理をかき込み、それをビールで流し込む。
HUDから露店の支払い専用ウォレットに送金し、軽く手を上げた。
「おっちゃん、美味かったよ。ごっそさん!」
***
路地裏に投げ出された老人は、頭を抱えながら必死に懇願する。
「や、やめてくれ! 頼む……!」
「まぁ、そう怯えんなって。ほんの数発殴らせてくれりゃ、俺もスッキリするしよ」
男がニヤニヤと笑みを浮かべながら、拳を鳴らした。
「ヒェェェ……!」
その瞬間——
「あ! 爺さん! こんなとこにいたのか!」
背後から、やけに飄々とした声が響く。
「も〜、こんな時間にうろうろして……仕方ねぇなぁ」
突然現れた龍之介に、拳を振り下ろしかけていた男が動きを止める。
「お、あんたたちが爺さん見つけてくれたの? もう爺さんったら、すっかりボケちまってさ。急にいなくなっちまうもんだから困ってたのよ。ありがとね」
龍之介はそう言いながら、拳を振り上げた男の肩をポンと叩いた。
「ギャアァァァッ!!」
男の腕がダランと下がり、悲鳴が上がる。
「い、イデェェェ!!」
「テ、テメェ何しやがった!?」
周りで見ていた二人が、慌てて身構える。
「ん? どうした? 肩でも抜けちまったか?」
龍之介は涼しい顔で、うずくまる男に近づく。
「どれどれ、ちょっと見せてみな」
そう言いながら、今度は反対の肩をポン、と叩いた。
「ウギャァァァ!!」
男の両手が力なくぶら下がり、顔には涙が滲む。
「テ、テメェ……ブッ殺してやる……!」
「おーおー、そんな姿で威勢がいいねぇ。でも、お生憎さん——俺は忙しいのよ」
龍之介は呆気に取られている老人に手を貸し、身構えたままの二人を横目に歩き出す。
「さ、爺さん。家帰るぞ」
「お、おい待ちやがれ!」
背中に怒声が飛ぶ。
龍之介は足を止め、ゆっくりと振り返った。
路地裏の薄暗い明かりが、彼の藍色の瞳を鋭く照らし出す。
「……俺は忙しいって言ったよな?」
その一瞬で、男たちの身体が凍りついた。
「あ……藍色の瞳……おま……いや、あんた、もしかして——」
男が震える声で言いかけた瞬間、龍之介はそれを一瞥すると、何も言わずに老人と共に路地を抜け、大通りへと消えていった。
「くそ、追うぞ!」
一人が叫ぶ。
だが、先ほどまで騒いでいた男がそれを制した。
「……やめとけ」
「は? なんで——」
「——あいつ……インディゴ・エコーだ」
そう呟いた男の声は、微かに震えていた。
「インディゴ……? なんだって?」
「傭兵やってた奴なら誰でも知ってる。戦場を駆ける藍の残響、碧き亡霊……都市伝説か何かだと思ってたが……まさか、本当に存在するとはな……」
男がゴクリと唾を飲み込む音が、静まり返った路地に響いた。