個室ラジオ
繁華街の裏路地。どんな酔っ払いでも足を踏み入れることを躊躇しそうな、照明も切れかけた古い雑居ビルの三階。
そこに、その店はあった。
「個室ラジオ」。
外から見える窓ガラスに、薄汚れた字でそう書かれていた。
ビルの外付けの非常階段の入り口は、無作法者が勝手に上ってくるのを防ぐためだろう、南京錠付きの鉄格子で閉ざされており、それをいいことにその向こうの階段には、ダンボールが雑然と積まれている。
非常階段としての機能はすでに失っていた。
三階まで上がるには、すえた臭いのするエレベーターを使うしかない。
人が乗るとその重みでぎしぎしと不穏な音を立てるくせに、ドアの開閉だけはやたらに速いそのエレベーターに乗って、三階まで上がれば、もう目の前がその店だ。
シンプルな内装で統一された、殺風景で薄暗い店内。
入ってきたのは、この界隈とは全く不釣り合いな、上等な仕立ての背広を着た中年の男だった。
「いらっしゃいませ」
受付に座る初老の男が、慇懃な態度で客を出迎える。
「個室でよろしいですか」
「ああ」
整髪料できっちりと固めた頭を揺らして、客の男は頷いた。
「いくらだったかな」
「二十万四千円です」
受付の男は淀みなく答えた。客は上着の胸ポケットからブランド物の財布を取り出しながら、軽い口調で言う。
「そろそろカードが使えるようにならないのかね、この店も。毎回これだけの現金を持って来るのも結構手間なんだけどね」
受付の男は無表情のまま、何も答えない。
客の方も別に本気でそれを要望したというわけでもないようで、財布からごそっと掴みだした一万円札の束を、確認もせずにカウンターの上にぽんと置いた。
受付の男は慣れた手つきで紙幣を数えると、手元の引き出しを開けて、五千円札と千円札を一枚ずつ、カウンターの上に置く。
客がそれを受け取って財布をしまうのを待ってから、受付の男は恭しく鍵を一本、取り出した。
何のキーホルダーも付いていない、青緑色に錆びかけた鍵だった。
カウンターの上に、かちゃりと鍵を置く。
「今日の周波数は、1125.9です」
受付の男は囁くように言った。
客は頷くと、鍵を手に受付の横の扉へと足を向ける。
扉の鍵を開け、客が部屋の中へと消えるとき、受付の男は深々とお辞儀をした。
「どうぞ、ごゆっくり」
さして広くもない、8畳程度の大きさの部屋の中央に、小さな木の机がある。
それ以外には、家具は何もなかった。
椅子もない。棚もない。
床には、何かの染みが点々と付いたグレーの絨毯が敷きつめられている。
窓もない。この部屋を照らしているのは、天井からぶら下げられた裸電球一つだけだ。
木の机の上には、黒い小さな長方形の物が置かれていた。
古びたラジオだった。
客の男はそれを見て、すう、と息を吸い込む。
スーツが汚れるのも構わずにラジオの前に跪くと、銀色のアンテナをしゅるしゅると伸ばしていく。
右上のスイッチをスライドして電源を入れると、さー、と軽い砂嵐の音がラジオから流れてきた。
客はダイヤルを調節して、周波数を合わせる。
1125.9。
客がその周波数にたどり着くまで、ラジオは何の番組も拾わなかった。
うあー……
ちょうど指定された周波数になったとき。
ラジオから、不意に声が聞こえた。
それは何かの叫びのようだった。
うあー……ああー……
誰かが、喉の奥の方から絞り出すように叫んでいる。
大人か子どもかも、男か女かすら分からない。
叫び声は途切れ途切れに、けれどいつまでもラジオから流れ続けた。
客の男は跪いたまま、ラジオに耳を付けるようにしてそれを聞き続けた。
部屋から出てきた客が、受付のカウンターに鍵を置く。
ごとり、と重い音がした。
受付の男は客の目を覗き込むように見上げた後で、素早く鍵を掴んだ。まるでそれを奪い取られることを恐れているかのようだった。
ありがとうございます、とも言わなかった。
敵意のこもった眼で、客の男を見上げる。
この無礼な仕打ちに対して、客は別に何を言うわけでもなかった。虚脱したような顔をして、覚束ない足取りでふらふらと店を出ていく。
受付の男は黙ったまま、客の背中を睨みつけていた。
上等な背広の背中に、深い皺が三本できていた。
古いエレベーターが客を乗せ、危険な速さでドアを閉める。客の姿が見えなくなるまで、受付の男はそちらを威嚇するかのように睨み続けた。