2.回らぬ頭と抗えない眠気
「ん、ああ、トイレか! 悪いな、分かりづらいだろ。本当は世話係の奴が教えるんだが、女性陣は今色々と立て込んでいてな~。忘れてたんだろ。服はあるか?」
「あ、いえ」
「そうか。取ってくるからトイレ済ませたら前で待っててくれ」
「はぁ」
世話係なんて人に会った覚えはないが、男の対応から察するにイーディスを新入りか何かと勘違いしているらしい。それも寝間着以外の服を所持していなくても不審に思われない少女の新入りが。
とりあえず相手が悪い人ではないことは理解したが、ここは一体どういう場所なのだろう。
首を捻りながらもお言葉に甘えて中を確認させてもらい、手を洗ってから外へ出た。
「何がいいか分からなかったからとりあえずワンピース持ってきた。後でこれ来て自分で服選んできてな」
「ありがとうございます」
渡された服を胸の前で抱えながらぺこりと頭を下げる。男が持ってきてくれたのは黒のワンピース。レースやリボンなどの装飾は一切なく、本当に仮の服といった感じだ。一番無難なものを選んできてくれたのだろう。
「ん。部屋への帰り道は分かるか?」
「……すみません」
「女性の客間はここを真っ直ぐ行って突き当たりを右な。あと、来た時に説明は受けたかもしれないが、これからここに来る時に名乗った名前で呼ばれることになる。ドアプレートにもその名前が書かれているはずだ。しばらくは客間で過ごすことになると思うが、訳ありも多いから自分の名前が書かれた部屋以外は開けるなが基本だ。プライバシー問題もそうだが、制御の出来ない奴と鉢合わせると危険だからな」
「わかりました」
制御云々はよく分からないが、ここが特殊な建物であることは理解した。手洗い場と自室の場所は把握したので、後はイーディスにもいるのだろう世話係に聞くことにしよう。ありがとうございます、と深く頭を下げれば彼はガハハと豪快に笑う。
「来たばっかりなんてみんな似たようなもんだから気にすんな。ゆっくり覚えていけば良い。じゃあ俺は行くけど、そういえば嬢ちゃん名前は」
「私は」
イーディスです、と告げようとした時だった。
「キャー」
つんざくような女性の声が廊下に木霊した。その途端、男の表情は険しいものへと変わっていく。
「っ! 特別室の方からか。嬢ちゃん、部屋に戻ったら世話係が来るまで部屋から出るんじゃねえぞ」
「は、はい!」
緊急事態が起こったらしい。男はイーディスを残して廊下を走ると、突き当たりを左に曲がった。また悲鳴を聞きつけたのか、階段の下も何やら騒がしい。これは男の指示通り、部屋に戻った方がいいのだろう。イーディスはワンピースを抱え、突き当たりを右に曲がった。
ーーまでは良かったのだが。
「ドアプレートがかかっている部屋が一個もないんだけど……」
ここに来る際に名前を名乗った覚えがないから別名が書かれた可能性もあるかも、なんて思っていたが、まさかドアプレートの設置自体を忘れられているとは……。それとも名乗れる状態になかったから後回しにしたのだろうか。勝手に出ることは想定していなかったのだろう。これはイーディスの落ち度でもある。
男の言葉が嘘もしくは間違った情報であった可能性も否定はできない。だがそもそも戻ってくる気があったのだから、ちゃんと確認しておけば良かった。寝ている時間が多いからか、どうも頭がろくに回っていない気がする。
手洗い場に至るまでにいろんなドアを開けてしまったイーディスとしては、また開けて確認を繰り返してもいいのだが、先ほどの男の言葉が引っかかる。誰かに聞けばいいのかもしれないが、あいにくと男が走り去った方向が騒がしい。立て込んでいるのだろう。
「座って待ってればいっか」
ドアの前にいても邪魔なので、壁を背にして腰を降ろす。本でもあれば時間を潰せるのだが、イーディスの手元にあるのはワンピースだけ。体育座りをしながら胸と太ももの間で挟んだ状態だ。
すぐ近くの窓からは温かい日が差し込み、少しだけ空いた隙間からそよそよと風が吹き込んでいる。ここが見知らぬ場所でさえなければお昼寝には絶好のタイミングである。寝てはいけないとペチペチと頬を叩いたイーディスだったが、一度自覚した眠気はそう簡単に引いてはくれない。ゆらゆらと船をこぎ始め、そして遠くから聞こえる女性のヒステリックな声が入眠BGMとなる。瞼は次第に重くなり、欲にあらがえなかったイーディスはゆっくりと眠りの世界に旅立った。




