20.誰もが今を生きるしかない
「それは私が悪いのですか」
唇を噛みしめ、ずっと我慢していた言葉を吐く。
「え?」
「私は幸せになったらいけないんですか? リガロ様のために不幸で惨めな女で居続けなければいけないんですか」
リガロが剣聖になった後も、シナリオが終わった後まで拘束され、一体いつまでイーディスは彼のサンドバッグで居続けなければならないのか。モブには人権などないのか。怒りよりも空しさがこみ上げる。ドアに手を当てながら、このドア一枚分の隔たりこそが主役とその他大勢の生きる領域の境界線なのだろう。涙が溢れた。
「すまなかった、イーディス」
一体いつからそこにいたのだろう。
もう長らく聞いていなかったが、リガロの声にはもう昔のような快活さはない。
「魔に犯されていたなんてただの言い訳にすぎない。俺はイーディスが昔のように笑っていると聞いて、隣にいるキース様が羨ましかった。でも玄関の絵を見て、イーディスの笑顔を見て心底ホッとしたんだ。君を傷つけてしまったことは謝って済むようなことではない。それでも、償わせてくれ」
いや、イーディスが比べているのは昔の彼ではない。夢の外の、魔に犯されながらもイーディスのことを見てくれたリガロだ。
「……もし悪かったと思うのなら、これ以上私の中のリガロ様を穢さないでください」
ドアの向こう側の彼も、もし何かが違ったら一緒に馬に跨がる仲になっていたかもしれない。けれど『もしも』なんて考えたところで無駄なのだ。過ぎた時間は戻らない。ゲームのようにセーブ&ロードは出来ないし、分岐となった場所も分からない。リガロとイーディスに限らず、ここにいる誰もが今を生きるしかないのだ。
「イーディス……」
「私とあなたはもう何の繋がりもありません。勝手に幸せになってください」
「許して、くれるのか?」
この世界のリガロとイーディスは関係がない。彼が罪悪感を抱いているのは『イーディス』に対してである。だから許すも許さないもイーディスが決めるようなことではない。だが彼女の意識はもう残っていない。イーディスが汲み取るしかないのだ。
「あなたが剣聖であり続けるのであれば、私はあなたを恨むことはありません」
『イーディス』が最後に望んだのは、リガロが剣聖になること。そんな彼女が今の彼を見たらきっとガッカリするから。だから剣聖であり続けてくれ。『イーディス』の犠牲が無駄ではなかったのだと思わせてくれ。そうでなければ彼女はずっと報われないから。思いを打ち明ければ、壁の向こうから小さく息を吸う音がした。
「生涯君に恥じることはない剣聖であり続けると約束しよう」
リガロの決意の音だ。彼は過去を思い出に昇華し、前に進むことを決めたのだ。けれど聖女にその思いは伝わなかったらしい。
「そんなの新たな枷を作っただけじゃないっ! 私は癒やしの聖女として人の役に立ち続けなきゃいけないのに……。リガロ様なんて選ぶんじゃなかった」
もしも聖女が『枷』と呼ぶものが『イーディス』への罪悪感だけであれば、その枷は時間が風化させてくれるかもしれない。けれどおそらくそれだけではない。何よりリガロ本人は枷から解放されることを望んでいない。むしろ自ら縛られたいと首を差し出しているようだ。判断材料は声と言葉しかないけれど……でも分かってしまうのだ。それが長年魔を受け止め続け、そしてこれからも生涯解放されることのない彼が導き出した結論なのだろう、と。もしイーディスが彼を解放したところで彼はきっと新たな枷を探し出すだけだ。それが、人々の罪の一端を背負うことになった『剣聖』の役目だから。胸元をぎゅっと押さえ、溢れそうになる涙を必死でこらえる。
「君は何か勘違いをしている。パートナーは異性である必要があるが、絆の形は何も恋情だけではない」
「まだ、力を失わずに済むと?」
「それは君達次第だろう。ギルバート家は君が力を失おうともそれが事実ならば受け入れるだけだ」
乙女ゲームシナリオでは恋愛がメインだった。この世界でも学園にいた頃のヒロインは心の底からリガロを愛していたと思う。けれどもうそれだけではないのだろう。癒やしの聖女として大陸中を巡った彼女はもう立派な聖女となった。選んだ相手がリガロでさえなければもっと明るい未来が待っていたかもしれない。それでも婚約者の女を踏みつけてでも彼の手を取ると選んだのは彼女自身だ。ある意味、今二人の前に立ち塞がっている壁は遅れてやってきた愛の障害なのかもしれない。キースの言葉通り、乗り越えられるか諦めるかは二人次第。だが、きっと彼女は果敢にアタックするのだろう。
「帰ろう。俺達はもう、ここにいるべきじゃない」
「ここへはもう来ません。でもゲートにはまた足を運ばせてもらっていいですか? あそこなら一般人がいないから練習にちょうどいいですし、少しでも早く感覚を取り戻したいのです」
「ああ、また来てくれ。今度は三ヶ月に一度くらいのペースで」
「何度もデートの邪魔をしてしまい、申し訳ありませんでした」
「分かっていてやっていたのか?」
「これ以上、リガロ様の耳にあなたたちの噂が入るのは阻止したかったので。大変お騒がせいたしました。それでは、あなたたちの未来に聖母の祝福があらんことを」
誰もいなくなった三階でイーディスは長いため息を吐く。
窓の外からは馬車の遠ざかる音がする。嵐のようにやってきた聖女は驚くほど静かに去って行ったのだった。




