4.幸せの模様
イーディスがマリアとの手紙が詰まった箱を開けたのはつい一昨日のことだ。
視界に入れないように、引き出しの奥底に眠らせていたそれを取り出し、一番初めのものから順に手に取った。マリアの文字をなぞるように、酸素のたっぷりと入った空気を取り入れるようにじっくりと読み込み、涙を溢す。リガロに捨てられた時は流れなかった涙がボロボロと溢れ出す。手紙が濡れないようにハンカチで目を押さえて、けれど手を止めることは出来なかった。
この手紙を受け取った時の『イーディス』は確かに幸せだったのだ。婚約者に見向きもされずとも、好きなものを共有出来る親友さえいればこの先もずっと幸せでいられると信じていた。
興奮も冷めやらぬ状態で便せんにペンを走らせている時が。
マリアの熱量が詰まった封筒を開ける瞬間が。
期待に胸を膨らましながら勧められた本を捲る時間が。
小さな幸せだと必死で手の中に隠し続けていた。
マリアからの最後の手紙を封筒から取り出せば、便せんはいたるところがよれてしまっていた。乾いていてもすでに落とされた涙の跡が消えることはない。大きく深呼吸をし、心の準備を整えてから開いたイーディスだったが、彼女の文字よりも先にとある物に目が奪われた。
「っ、なんでこの模様が……」
便せんの縁に描かれていたのは鳥の羽根と植物の蔦が合わさった不思議な模様だった。
『イーディス』にはこれが最後の手紙になることを察したマリアがいつもとは違う何かを残したかったように見えただけだった。けれどイーディスは知っている。マリアがこの模様を『幸せの模様』と呼んでいたことを。紙の上にすらすらと描く彼女は嬉しそうに笑っていたことを。
この世界の『イーディス』にとってもこの模様はどこかで見たことのあるような、以前読んだ本の中に描かれていたのかもしれない模様だったかもしれない。けれど模様の名前が分かれば、この手紙に含まれた意味が変わっていく。
珍しく『イーディス』の勧めた本の感想も、マリアのオススメの本も書かれていなかったこの手紙に綴られていたのはマリアと『イーディス』の思い出だった。楽しかった思い出が沢山綴られたそれを読んだ『イーディス』はマリアはもっと生きたかったのだろうと勘違いをしていた。けれど本当は違ったのだ。彼女が最期の手紙に残したかったのは、イーディスと出会えて幸せだったとの言葉と、この世界に残していくことになる親友に向けて幸せになってくれとのエールだった。
「この世界は、悪夢なんかじゃないっ!」
例え親友が息を引き取った後だったとしても、この先に希望が見えなくても、幸せがあったことを否定したくはなかった。数年遅れではあるものの、マリアからのエールをしっかりを受け取ったイーディスは前を向くことにしたのだ。
ーーといっても宙ぶらりん状態のイーディスが出来ることなんて限られている。
一日のほとんどを部屋で過ごさなければならないイーディスには、変化のない一日の代わりに趣味の偏った本棚で見つけた本の感想を日記に綴ることくらいしか出来ない。
マリアからの手紙をもらった時に彼女の想いに気付いていればと思わないわけではないが、不思議と後悔はなかった。むしろイーディスのこれからの未来から大嫌いな脳筋を排除出来たことを幸運に思ってさえいる。
「よし、今日はこれにしようっと」
棚から本を抜き出したイーディスは窓際の特等席に腰を降ろす。濃い目の紅茶と甘いお菓子。窓でも開けられれば最高なのだが、そこまでのワガママは言うまい。
「イーディスには明日、早朝の馬車で移動してもらう」
「どこに行くのですか?」
「隣国付近の山の中にフライド家の親戚が管理する屋敷がある。そこに移り住んでもらうことになる」
「フライド家の、ですか?」
「ザイル様が今後のイーディスの生活を保証してくださる。慣れた地を離れることにはなるが、私もその方がイーディスのためになると判断した」
一ヶ月近く繰り返された話し合いだったが、概ねイーディスが予想した通りとなったようだ。保証といってもどのくらいしてくれるか分からないが、監禁まがいのことをするなら本とお菓子くらい要求してもバチは当たらないだろう。
「わかりました。荷物をまとめておきます」
イーディスは部屋に戻り、マリアから勧められた本と彼女からの手紙、そしてこれまで書いた日記をバッグに詰めた。途中でやってきた使用人には数着、くつろぎやすい服を選んで詰めてもらった。用意といってもこれくらいだ。枕が変わって眠れなくなるような繊細さもなく、ましてやリガロとの思い出の品を持っていこうなんて気も起きない。むしろ庭の落ち葉をかき集めて燃やしたいくらい。もちろんそんな目立つ上に労力のかかることなんてしないが。
ザイルが用意した馬車はまだ暗闇に支配されている時間にフランシカ屋敷に到着した。フライド家の家紋なんて入っていない、レンタル用馬車である。もしも入れ物だけ用意された状態ならば邪魔者排除に動いたか? と少しは警戒したことだろう。だが馬車に乗ってやってきたザイルが直々に道中の警護をしてくれるらしい。
「本当に荷物はこれだけでいいのか?」
「ええ。必要なものは全てこの中に入っておりますので」
「今回のことは私達の責任だ。気なんて使わないでくれ」
苦しそうに声を吐き出すザイルは、婚約者をさらし者にしたリガロとは大違いだ。孫の婚約者に申し訳ないと深く頭を下げるようなザイルに憧れた結果がなぜああなったのだろう。リガロのアレは年を積み重ねたところで変わるようなものでもないように思う。愛情を向けた相手にだけは優しさを見せるのかもしれないが、剣の強さだけを受け継いだ孫は本当の意味で剣聖になれたのだろうか。『イーディス』やこの世界の住人はこの世界のリガロを新たな剣聖として認めたが、イーディスの憧れた剣聖とは大きく異なる。幼い頃、父が語ってくれた剣聖の話は誰よりも強く、同時に優しかった。
「生活に必要な物はザイル様が保障してくださるのでしょう?」
「それは、そうだが……」
「でしたらやはりこれで十分ですわ。夜会用のドレスもアクセサリーも、持っていったところで私を過去に縛り付けるだけですから」
「かの剣聖様にこんなことを言うのは大変心苦しいのですが……私が未来に進むために、手を貸してくださいますか?」
にっこりと微笑めばザイルは目を丸く見開いた。けれどすぐにその目は細く伸びていく。彼にもイーディスの想いが伝わったらしい。
「老騎士に出来ることならなんなりと」
憧れの人は膝を付き、そして忠誠を誓うようにイーディスの手の甲に唇を落とした。




